べっ甲の櫛笄         江戸時代の長崎の鼈甲店上総屋 



べっ甲細工が長崎にはいってきたのは近世にはいりポルトガル船が長崎に入港したときでした。17世紀になると唐船やオランダ船もべっ甲製品を運んでくるようになりべっ甲細工の原料である玳瑁(タイマイ) も長崎に陸揚げされるようになり長崎に住む中国人の手によって日本でもべっ甲製品がつくられるようになりました。そして寛永年間のころその技法を唐人から学び日本人の手でべっ甲細工がつくられるようになりました。しかしその当時徳川幕府は倹約令を出し庶民の贅沢を厳しく取り締まってい ましたのでべっ甲製品の売買もかたく禁じられていました。そのため玳瑁亀の甲羅でつくった「?甲」(べっこう)ではなくて鼈(すっぽん)の甲羅でつくった鼈甲(べっこう)であるという隠れ蓑をつかいべっ甲細工はひろく普及していきました。元禄時代には丸山付近に多くのべっ甲職人がいたと伝えられています。べっ甲細工は江戸時代を通してそのほとんどが髪飾りで長崎丸山の遊女たちもさかんにべっ甲の櫛を使っていたといわれています。17世紀末には一般大衆の間にもべっ甲が流行していきましたがたいへんな贅沢品でした。18世紀になると長崎の中島川沿いの賑やかな通りに多くの鼈甲屋があったといわれています。しかし当時はあまりにも高価であったことや原材料の玳瑁が輸入品であり入手するのに限界があったということで注文に応じてつくるのが精一杯で店頭に並べて販売されることはなかったといわれています。1859年(安政6年)諸外国との間に開国条約が締結され長崎の港にはオランダ船のほかにアメリカ.イギリス.ロシアなどの商戦や軍艦が絶え間なく出入りするようになりました。そしてロシア人がべっ甲を好んで購入するようになり長崎のべっ甲職人は国内向けだけではなく外国人が好むべっ甲製品もつくるようになりました。やがて明治の文明開化に伴い外国との貿易が自由化されべっ甲の原材料も充分に供給されるようになりました。そして長崎のべっ甲職人は西洋人の生活様式にあったデザインのべっ甲製品をさかんにつくるようになり日本人の繊細な手工芸技術と 西洋のお洒落なデザインが融合し日本のべっ甲細工は明治初期から昭和初期にかけて長崎で「文化の華」を開花させていきました。そして西洋人の口から「シンガポールや香港.フランス、イタリアなど世界じゅうにべっ甲はあるけれど長崎のべっ甲がいちばんいい」という評価を受けるようになり長崎のべっ甲細工は世界の名品の仲間入りをすることになりました。そしてその話が外国人の口から日本人に伝わり「長崎は鼈甲の名産地」といわれるようになっていきました。やがて第二次世界大戦後の高度成長期にはいり日本人が頻繁に観光旅行を楽しむようになりべっ甲細工は長崎を代表する名品の一つとして珍重されるようになり ました。

参考資料 越中哲也著「長崎のべっ甲」 鼈甲組合 「長崎べっ甲物語」