鼈 の造字

   
           
  

べっ甲という漢字は 左上の文字のように すっぽん「鼈」の甲羅「甲」と書きます。
すっぽんという文字の旧字体は真ん中の文字になります 。
しかしわたくしどものお店ではわたくしが物心ついた頃から右上の文字を使っていました。
べっ甲のお仕事をはじめるようになってどれくらい経った頃でしょうか。
お店の若い女子販売員から「べっ甲の鼈という字が間違っています。辞書で調べても載っていませんでした」 と尋ねられたことがありました。
「当たり前に使っていたから意識したことがなかった。うちのお店ではずっとこの文字を使っているから送り状に店名を書くときはそのまま使って」
と答えました。
わたくしも辞書で調べてみましたがたしかに 載っていませんでした。そして「まあ いいか」とそのまま忘れていました。

作家の永六輔さんと一時間半ほど二人だけでお話をする機会がありました
べっ甲の鼈という字 うちではなぜか辞書に載っていない変な字を使ってるんです 
尚 という字になっているんです。
創業者である曽祖父の時代は普通の鼈という字だったんですが祖父の代になってから辞書に載ってないおかしな字を使ってるんです」
とお話ししたところ。
「敝 という漢字には 小さい 敗れる という意味がある。 敞 という漢字には気高いという意味がある。
たぶん川口さんのおじいさんは自分のところで扱うべっ甲の商品は気高くありたいという目標を漢字に現わしたかったのではないだろうか。
そしてあえてそのことを孫である川口さんに伝えなかった。
それが明治生まれの人間の 粋 というもの。
自分の夢や希望や目標を軽はずみに人に話すのは粋ではない。
世阿弥が著した能楽書「風姿花伝」の一節。「 秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」という芸能の世界の考え方に近いのかもしれない。
歌舞伎の中村屋の正式な漢字は村の寸の真ん中に点はないんです。
自分の芸が完成したときにはじめて中村の村の真ん中に点を入れることができる。という考え方なのです。そして中村屋の芸はまだ完成していない。未だ発展途上です.  ということ。 でも中村さんたちはそのことをあまり公言していない。それと同じことなのだと思う、自分の後を継ぐ人間が自分の気持ちに気づくもよし.気づかないもよし. そういうことだったのではないかな」
という言葉が返ってきました。

秘すれば花 という言葉に従ってこのことは誰にも語らないできました。
祖父が他界して35年以上の月日が流れました。
祖父が漢字一文字に託した思いを受け継ぐことができたかと問われると首を横に振るしかありません。
しかし そう遠くない将来に終焉を迎えるべっ甲店のしんがりとして ホームページの末尾にそっと記してもよいのではないかと思うようになりました。
わたくしも還暦を過ぎました。いつまでこのお仕事に携わっていけるかわかりません。それでもからだと心が続く限りこの漢字を大切に使っていきたいと思っています。

2019年(平成30年)4月3日           川口洋正 拝