わたくしには夢がありました。
日本の西の端の小さな港町のしがないべっ甲屋の親父として 毎日暇を持て余しつつ まわりからは昼行灯と揶揄される傍らで 童話を書きたい。そして自費で本にしてさり気なくお店においていたい。絵本作家としてのもうひとつのお仕事をしたい。
山本さんと親しくなっていくなかでなんとなくその事をお話ししました。
山本さんから言われました。
「わたしはあなたのお仕事をするのにとても苦しんだ。しかしあなたはまったく苦しんでいない。あなたは自分のことやお父さんやおじいさんのことをただわたしに話しただけ。そして何も知らないわたしはあなたのお話をかたちにするのにそれこそ七転八倒した。
わたしは苦しんだのにあなたは苦しんでないというのは一つの仕事をするにあたっては不公平である。
童話作家や絵本作家になりたいというもうひとつのお仕事を頭の中に描いているのであればあなたはその原稿を書くことによってなにもないところから何かを作り出す産みの苦しみを味わうことになる。それではじめてフィフティフィフティの関係になれる。あなたはわたしに何通も手紙を書いてくれた。あなたは文章が書ける。童話の原稿 できたらわたしに送ってほしい。わたしがさし絵を書いて出版までもっていってあげるから。あなたが書いた原稿に挿絵を描くことはいまのわたしには苦しいことではない。なぜならば この一枚の絵を描くのにとても苦しんだから。あなたはこれから苦しまなければいけない。 一緒にやりましょう」
日々の生活のなかで原稿書きに挑戦してみましたがまったく筆が進みませんでした。
それから2ヶ月ほど経った頃 突然 べっ甲の原材料の完全輸入禁止が決まりました。青天の霹靂でした。その日を境にわたくしの人生は波乱万丈・修羅場の連続でした。
三菱銀行からの悪魔のささやきがありました。「武器を持っていないと戦争はできない。鼈甲屋さんは玳瑁の甲羅を持ってないと商売ができない。あなたのお店の不動産は全日本ランキング7位 九州で2番目 長崎では一番土地の値段が高い一等地 その土地を担保にお金を借りて力の続く限り甲羅を買い占めるべきだ」 31歳のわたくしは二つ返事でその話に乗りました。
玳瑁カメの甲羅を2トンほど手にしました。「これで20年ぐらいはどうにかなる」と胸をなでおろしました。
新聞やテレビのニュースでバブルがはじけたと毎日のように報道されました。わかるようなわからないようなこととして受けとめていました。東京や大阪から「川口で鼈甲を買うために長崎まで来ました」と言って 高額品を買ってくださっていた方々がある日を境に誰もいらっしゃらなくなりました。それと時を同じくしてあめ色の多い高いお値段の商品をお買い上げくださっていた日々のお客様の財布の紐も急に硬くなりお値段の安い黒っぽいものから売れるようになりました。「大変なことになった。このままだと借入金の返済が厳しくなる」と頭を抱えていたとき 雲仙普賢岳が噴火しました。観光客の足が遠のきました。
悪い時には悪いことが続きます。バブルがはじけたことで不動産の評価額も一気に下がりました。借入金のクレジット上限額が下がりました。最終的には お店を売却して帳尻を合わせました。そういう諸々の出来事のなかで心労が重なり悲しみのストレスに弱いといわれている腎臓が壊れました。 突然倒れ 危篤状態になり 意識が戻ったときには生命維持のための24時間の人工透析を導入されていました。親しくしていた弁護士の先生から「商売は気力知力体力 この三つが兼ね備わっていなければうまくいかない。一つでも欠けたらだめだ。あなたは体力がない。お店を閉じて長く生きることだけを考えたほうがいい。療養に専念しなさい」というアドバイスを受けました。お店を閉めて1年ほど経ったころ 軽井沢の知人を訪ねたときに信州浅間高原の独特の空気感に惹かれ「余生はこの街で過ごしたい」と思うようになり長崎を離れて転地療養のため人口17000人の小さな高原の田舎町に越してきました。
山本さんとの約束は頭の隅にもありませんでした。それとなく親しくさせていただいていた永六輔さんから「病気と仲良くしろとは言わない。でも病気と喧嘩をしてはいけない。病気とは共生していくものなんだ。このことだけは決して忘れないように。きつく申し渡しておく」と厳しい顔で言われたことがありました。それがきっかけで自然体でスローな考え方をするようになりました。
2016年に思うところがあってヤフーオークションで手持ちの商品を出品するようになりました。このまま自分がいなくなると手元にある商品が骨董品店の店頭に並ぶことになる。それだけは避けたい。骨董屋さんに並べるぐらいだったら鼈甲を好いてくださる方々にお値段を決めていただいて買っていただくオークション販売に舵を切ろう」という思いでした。
2018年の秋 これまで出品してきた商品をアーカイブとして Twitterにまとめました。なんとなく Twitter の壁紙に山本さんに描いていただいた絵の写真を登録しました。そしてお買い上げいただいた商品の写真をアップしました。デスクトップパソコンのディスプレイに映る山本さんの絵とべっ甲の商品の写真を一緒に見た瞬間 遠い記憶の彼方に忘れてしまっていた童話のことが頭をよぎりました。よぎるというより閃光が走ったような思いでした。若い頃 どんなに頭を捻っても浮かんでこなかった童話のストーリーが30年余りの時を経て一気に浮かんできました。時間軸という概念が頭の中を駆け巡り過去・現在・未来が一つの線として繋がりました。 35年ほどまえに祖母から聞かされていた創業当時の大正時代の鼈甲屋さんのあれこれ 戦争前.戦争中 そして戦後 祖父と長崎県東京事務所長の渡辺さんが二人で日本政府の管轄官庁に一か月通い詰めて座り込みをして最後はお役人の人達が根負けするというかたちで戦争で途絶えていた鼈甲の原材料の輸入再開にこぎつけたお話などが目の奥に浮かんできました。わたくしが知っている遠い昔のべっ甲に携わってきた人たちのお話はわたくしが此岸から彼岸に旅立つことで世の中から完全に消えてしまう。それとなくそしてさりげなくどこかで書き残しておきたいと強く思いました。そして祖母や親類のおばあさまから聞いたことをただ時系列に書くのではなくて 童話というかたちのなかで綴りたいと思うようになりました。頭の中にはストーリーがいくつもあるのですが文章にするのはたいへんです。産みの苦しみです。
宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」は何年もかけて加筆修正を繰り返して出来上がった作品であるとどこかで読んだことがあります。わたくしごときの拙い童話.どんなに加筆修正をしても読んでいただくに値するものになるとは思えないのですが ホームページの最尾に何年もの時間をかけてアップしていきたいと思っています。
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