悲しみだけが夢を見る 自分は あの日 誰のために 何を悲しんだのか。悲しみさえ忘れなければ 夢も失わずにすむ。人はいつまでも美しい夢のなかで生きていける。脚本家 市川森一さんが1988年に発表した作品のなかに出てくる台詞です。この考え方を知ったとき わたくしは29歳でした。以後 人生の岐路に立たされるたびにこの言葉を思い出していました。自分の原点を見失わないように それがすべてでした。
わたくしの父は37歳で病死しました。わたくしは11歳でした。祖父は80歳で逝きました。わたくしは25歳でした。1984年12月 祖父の忌明け法要のとき 料亭花月の大広間での挨拶で祖母は深々と頭を下げたあとに言いました。「ここにいますわたくしどもの孫は川口の4代目でございます。しかし父を早く亡くし 祖父も晩年は病弱でした。べっ甲屋の後継ぎなのにべっ甲のことを何も知りません。何一つ教えを請うていません。べっ甲のことを教える間もなく主人も息子も逝ってしまいました。皆様 この頼りない孫にべっ甲のことを教えてやってください。それがわたくしの唯一のお願いでございます」
自分はそれなりにべっ甲のことを知っているという自負がありました。しかし祖母の目には何も知らないに等しいと映っていた。「明日から すべてのべっ甲関係者の人たちに 知らないことは知らないとはっきり言って ひとつひとつ疑問を解決していこう」と決めました。頭を下げてべっ甲のいろはを尋ねて回る毎日がはじまりました。祖父の考えとは対極にある価値観を目の当たりにして視野が広くなりました。
「川口のお孫さんと会ったら 原材料のことを教えてくれと質問してくる。製造現場を見せてほしいと頭を下げられた。オレは製造現場は誰にも見せていない。でもそういうわけにはいかない。それなりの小売店の店主が職人に頭を下げる。そう簡単にできることではない。だから 全部見せたよ。商品を卸す小売店には絶対に言ってはいけないことを話してしまった。オレはお人好しではないのに…」という話をべっ甲関係者の人達から伺うようになりました。
そして原材料輸入の現場を見ておきたい.という衝動が湧いてきました。偶然 輸入業者の方との出会いがありました。「できれば一度原産国の現場を見てみたい」と言いました。「わかりました」という返答がありました。「そのうちにお誘いがあるかも」と軽い気持ちでした。1時間後に「川口さんが原産国に行きたいと言ったから手配しました。パスポート持っていますか。持っていれば来週から2週間でカリブ海の国々へ行きましょう。わたしの輸入の現場をすべてお見せします」という電話がありました。「即答しなければこの人から口だけの軽はずみな人間という評価を受ける。でも外国を股にかけて一人でお仕事をしている凄みのある人間と2週間も一緒にいたら全てを見透かされる。怖い」と思いました。それでも勇気を出して「はい 予定をすべてキャンセルしてご一緒させていただきます」と返答しました。受話器をおいてから急転直下の現実にうろたえてその場に座り込んでしまいました。
そういう経緯がありましたのでべっ甲関係者の人達からは20歳代の若造には無理難題とも思われる言葉掛けがありました。
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