まえがき
本稿捻「長崎文化」第十一集にて戟稿したものに相当の改正を加えて記述したものである。
本邦に於ける鼈甲細工は長崎が著名ではあるが、長崎に於けるる鼈甲細工は其始が詳かではなく唐蘭船の入津当初頃に発してゐると推されてゐるので、約参百八十余 年の歴史と伝統を保持してゐることとなる。
そして其色沢と技術とは之亦他の模倣を許等ざる特技と秘法を有し、鼈甲と謂へば長崎を連想させる位全せ界に謳はれてゐるが、其内面には現在に於でも斯業界一般に古いギルト的な生産が残存しで居り、技術の真髄は秘法として之を蠱守し.一般には勿論-斯業に於ける師弟間に於ても師匠から一人の弟子に長期間の訓練を行つた後、貴針を継ぐ者にのみ口伝される風習がある。・勿諭之は技術の細微なること、生産者自体の視野が著しく狭少なること、等の諸点が基因してゐるのではないかとも推考され、為に第三者間に於ては、.ベテロジニアスと迄論評される傾向があるが、此点に関しては斯業者に限らず、總てのエンジニアー間に於ける共通した偏向として一応は肯ざれる。しかし此為技術を継承する人が消減する場合も考へられ、其生産規模に於ても、大分部家内二葉の城から脱することの出来ない極めて発展性のとぼしきものになつて終ふことも推考され、加ふるに長年に亘る戦争の結果凰料輸入の杜絶、販路縮少等、之等に依る不況の為零細なる斯業者間に於ては転職の止む無きに至り、一部分は、或はマニュファクチユア−に移向しっ1あるが、如何にせん原料を海外に依存せねばならぬ関係上、斯業界をあけて髄出入に依る時態の打開策に懸命の努力を傾注しっゝある。之に対し貿易再関、護和条約の其後に来るもの等難題続出、東西相似た楽観説を以て糊塗し得ぬ搾刻なる現状に到達してゐるのである。現に昔日の面影は若干を残すのみで残部は何時しか消え去ってゐる。しかし牛馬蹄角等の代用資材を以て現況を辛じて保持しっつある時、本甲資材の技術がマンネヮになる事は予想されないが、マニュファクチユアーへ移向すれば、ともするとマンネリになる傾向も考へられないではない。
此のデリクートな斯業界に、新に.一股人に対し其認識を深める為にはセクシヨンむ打破し、ミラクルな亦、エクゾテイシズムなる斯工芸品の解説を行ふことも必要ではないかと推考され、斯業振興一翼の為一段の拍車を掛け、其段階を築かんと思考する微意に依り本稿を草した次第である。
尚、本稿を記述するに当り一言附記したい事は、私は斯業に関しては全然素人であり水産を論究する者であるが故に其研究上派生的なものではあるが、派生的なるが故に概略を知る必要にせまられ・従って本論に手を染めねばならなかった。本稿はなるべく平易にして正確ならん事を期してはゐるが或は生の若年に依る不敏故誤報を伝へ或は観察其当りを失する事無きを保し難い。よろしく織者の御叱正を.乞ふ次第である。
又、生の実験観察等、種々御便宜下さつた長崎県鼈甲技術研究会々長 正封熟造師、二枚鼈甲店主二枚新三郎氏、江崎鼈甲店 江崎栄一氏、長崎県商工部長 堀田正隆氏及当業者各位の高庇に依ったものであり、、此処に衷心より謝意を表する次第である。、
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