あらまし
鼈甲は古来より珊瑚、真珠、及び螺錮細エと共に世に珍重される四大海産美術工芸品の一つ、であるが、其の起源に関しては詳かではない。しかし考古学上から推して本邦の貝塚から鼈と赤海龜、南西群島の一部から 正覚坊が発掘されて居り、之等は主として太平洋沿岸の貝塚から出土し、日本海沿岸の貝塚からは出土してゐない処を見ると、本種が熱帯性である点から推して、暖流の一基流たる北赤道海流に乗じて太平洋沿岸にて捕獲されたものであらう。しかし之等沿岸に限 らず、現在判明してゐる処では、関東地方等相当海辺から奥まつた貝塚からも出土されてゐるが、其の脊骨は完全なるものは稀で殆んど細かく打ち砕かれて居る点から推して甲の利用価値は少なかつたのであらう。
尤も古代、石帯に代瑁は用ひた例はあるが其外には見えない。
本邦史上に於ける記録としては推古天皇の時代、小野妹子等遣随使の事があつたり、舒明天皇の御学、遣唐便等の事実があつてゐるので、此れを利用した細工品といふものは随唐の頃彼国より持来ったものであらう。本品が正倉院御物、東大寺献物帳等に見られるのは其の證拠であらう。
従って此の淵源は頗る久遠であるといつてよい。
しかし之等は其の細工の完成品に関してゞあり、其の特種技術に関しては徳川鎖国の時代、本邦唯一の交易港であつた長崎へ舶載されたのである。
今日、鼈甲細工業は本邦の到る処で営業されて居り、特に東京、大阪、京都、名古屋等でも行はれてはゐるが、長崎に於ては其の沿革が最も久しく、亦、特別の発達を為して居り此地より本邦の随所に伝播し長崎鼈甲の名は入耳に膾灸され中外に知れ渡つてゐる。
然るに其の起源に関しては茫として文献の徴すべきものが無い。
明治甘六年(一八九三)版香月薫平の「長崎地名考」物産の部、鼈甲細工の項にも、「鼈甲の細工は当地.の特技にて元と唐伝也、昔より今は細工最も精巧となり外国人あまたにな れり、其始め詳かならず」とある。勿論、長崎会所以前鼈甲の賣買及加工は既に始まつてゐた、と諸誌に記されてある。
従来判明してゐる一例としては長崎会所時代、薩摩の大守某が琉球産の代瑁甲爪をもたらし、唐蘭品と共に年々五ケ所商人へ入札払と為してゐたとあるが、生の調査では此れ以前に於て繁般取引されてるたことが判明んた。
隣邦中華民国に於ても其の起源が詳かではなく此の逸話として彼の有名な萬里の長城の企画者でるる奏の始皇帝が金銀を以て鳳頭を作り其の脚を鼈甲にて装飾、之に「鳳釵」と銘名、王冠と為したと伝へられる。
中華民国古代物産誌とも謂ふべき「山海経」「禹貢」「史記の貨殖列伝」等は奏漢時代の文献として貴重なものであるが、之等及び之に類する各種文献に依れば、南方諸国よりの買品中に代瑁、鼈甲の名が見え、之等から推して南方民族の使用が最も古いものであろうと考察される。
斯品の利用が最も古いといわれる南海の各島民間では之の品を珍重し、彼等に依って中国にもたらされたものであらうが彼等の其製作品中、歴史的に因縁の深い物は珍賓と称し子孫に伝え、或は其人が死亡の際には遺品として近親に授けられるといふ風習がある。
本邦に於ける鎖国時代の天文学者として知られてゐる長崎の人、西川如見の「華夷通商考」に依れば、其著の諸国土産の中に、占城(チャンバ)lの鼈甲、母羅加(マラッカ)の代 瑁.ヂャワの鼈甲の名が見えて居り.中華民国奏漢時代の前記した古文献と其産地が、大略相似して居る処から、南方諸国より中国を経て本邦に渡来したものであらう。
本邦に於ける鼈甲の利用としては古くより頭髪に用ひられる櫛を最初と する様である。即ち、最初に用ひられた櫛は木造りであつた様で、次に牛角?最後に此の鼈甲であつた。そして其の頭髪に用ひられた装飾品は其の技術の普及と共に各種各様に作製さるるに至つた。昔は鼈のことを蔵六と緯名してゐたが.之は四肢と頭尾の六者を甲羅の中に藏め、能く害敵の攻撃にたえ得るからである。
本邦の婚儀には必ず鼈甲の櫛、笄簪は無ぐてはならぬものとされて来たが、之は本品が優越する美術品のみならず鼈は入為乃自然を超越した霊妙なるものと見倣されてゐるが、中華民国に於ては麒麟、凰、龜、龍と並称して、古来より四霊の一つに数へられてはゐる。しかし中国に於ては龜の事を「忘八」(ヮンパー〕と称して八徳を忘れた無道者として軽ベツしてゐるので、此の鼈甲の利用者はほとんどない。
しかし本邦に於ては詳瑞の兆として、或は年號に、或は天子吉詳の兆として、或は長寿の萬歳を祝せる縁起とし、鶴と相並んでで誕生、婚}等に於て重用されるのである。俗に鶴は千年は万年と称され.亦、婦人の戒として前記した蔵六の如で性質が柔順であれ、といふことに依って本邦の婚儀には之が用ひられるのである。もつとも此の穿簪を挿すといふ風 習は古くからの仕来りではなく、元祿時代から盛んになつたものらしい。
文献に依れば、享保の近松門左エ門の「博多小女郎波枕(上).に「.テリヨイ鼈甲百斤云々」とあり、貞享三年(一六八六〕に発刊された「一代女」の中に「未だ?甲の櫛なかりし故笑を賣る女さえ象牙櫛を挿す」と見え、叉、「女装考」に依れば、元祿中頃笄マゲと称する髪の結び振りが流行り、それより髪の挿物にしたとある。元祿三年(一六九〇)の「人倫図彙」職人の部に「代瑁を以て作り蒔絵金具を彩りたり」とある。叉、同じく元祿に於ける林鴻の「好色産毛に白浮のべツ甲、サシ櫛、笄にかざり云々」と見える。
之等に依って考察するに、代瑁の櫛、笄簪を挿すに至つたのは元祿に近い頃からであらう。
江戸初期の天和頃には既に八百屋お七が馬で刑場へ行くには此の櫛で前髪を押えたことが見え、亦有名な井原西鶴の作「好色一代男諸艶大鑑」に、「べつこうのさし櫛は本蒔絵で銀三匁五分」とあり、此処で不審に想われるのは本蒔絵を二匁とすれば鼈甲の櫛は一匁五分となる。前者は代瑁と称し後者は鼈甲といふ。一物に二つの名があるが、之が此処にて取上けねばならな.い大きな.問題である。
次に「近せ風俗志」(女粉之上)に、代瑁を鼈甲と謂ふ事及用 之事とあり、之を要約抜書すると…今の鼈甲は本名代瑁なり、鼈はスッガンなり、ー虔代瑁を禁止ありし時、商人スッポン甲に矯けて代瑁を賣りしより今は鼈甲が本名の如く 思ふ者多く、代理は別なる如く心得たる人多し、茲に於て真の代瑁を本鼈甲と謂ふは貴重なる故に贋物多きを以ての名なり、贋物に数品あり.朝鮮鼈甲は贋物にも非ず。一種の下品代瑁なり…贋造には牛角を以てし或は馬爪を以て贋ることあ り…文政宋か天保初頃より馬爪の摘笄簪とも表を薄ぎ鼈甲を以て製す、故に甲賈の真偽を辯じ難き迄に模造せり…今は能辯るなり、今世も専ら流布なり…一名「きせ」ともいふなり、三四匁の重さにし1価銀三四十目より百二三十目に至る…嘉永中鶏卵を以て模造する者あり、其初め真偽を分ち難し…と見えてゐる。
之にて前記した西鶴の作に見える鼈甲とは、当時製作されてゐたスッぷン甲であり、人間経済生活の現実をとりあけ、金目の無いといわれる西鶴も代瑁甲とカチゴリーしてゐることを知り得る。
丈、此処で朝鮮鼈甲は一種の下品代瑁とあるが、朝詳に代瑁が産するはずはなく、之は朝鮮に於ける水牛角であり、詳かではないが本邦に於いて安政頃之が輸入されたと謂はれてゐる。本邦に於ては天明の頃本邦産牛角を「地板」と称して用ひ.天明中頃は馬爪をバズと称して用ふる様になつた。今日でも馬爪で製されたものを擬甲中の上品としてゐるが、当時に於ては道に石なく、関東平野の如く平坦な所に使用されてゐた馬の爪が殊に透きも好く、其中でも練馬のバズを上として居り、特に江戸練馬のバズを最上としてゐた。此の.バズは後述する擬甲であり、従って鼈甲とは別である。
寛政五年(一七九三)芝生交作、北尾重次?になる「真向成嘘言吐図」於乎馬鹿羅之井銅真像の頭の部に「べつこうのくし、しちにおいても五兩のつう用、此かかでけふで三日もちんす、つむりがいゝとこんなにいつそふけがでんす」とあり、当時如何にべつこうが高価で貴重なるものであつたかを如実に物語ってゐる。
石城誌、.巻之七、土産(上) 「筑紫櫛」の項に、「近世、掛町、帯屋治右衛門といふ者」長崎に於て鼈甲細工を習ひ得て帰り、櫛、笄等を製せり、又水牛角にても作る。其伝を受 くる者津中に数多有り云々」
右、及び其れ以外の諸文献にも見られるのであるが、斯様に本邦最初.の開港地たる長崎より此の細工技術は普及されるに至ったのである。しかし之等は主として国内需要であり.国外向に関しては文化五年(一八〇八)九月、長崎に於て甲能辯五郎なる人が一霹国人より細工品の改造修残を託せられたことがあり、当時の長崎に於ては斯業者間で細工修理を為す事は出来るが、・外国人向鼈甲に関する嗜好意匠の知識と、其製作径験が無かった為、何れも其の改造に腐心したらしい。長崎市今魚町、江崎鼈甲店の記録に依れば、当時の店主、江崎清造氏が辛ふじて之を改造することを得たとある。後、此の清造氏は嘉永六年(一八五三)嗣子栄造氏と共に之にヒントを得、研究を重ぬ、外国へ試賣し好評を得た。
之を以て輸出向鼈甲細工に着眼した動機とされてゐる。
爾来、斯業に従事する人が多く、明治七年(一八七四)頃 に至つては最も困難とされてゐる艦船模型、其他花鳥類等動植物の実物と同様で巧に色合を理用し、寸分も違はぬ精巧品迄製作し得るに至つた。
そして此の細工に使用される原料には上海、香港、新嘉披等より輸入され其種類も雑多であつた。斯業の最繁期は明治卅七八年戦役前後で特に露国人には賣行良好であり眼鏡、莨入等は圧倒的多数を示してゐた。
先頭のページ 前のページ 次のページ >|