長崎べっ甲 驚異の躍進


古くから中国西欧諸国の文化の窓口だった長崎はべっこう細工の本場として知られている。戦後は特に二十八年頃から東京での全九州物産展等で紹介され、更に東京大阪など各都市で開いた長崎べっ甲展で、べっ甲の魅力が再発見され、去
る三月には東京の三越伊勢丹デパートに口座を獲得、独特の色艶や手ざわりが喜ばれ目覚しい進出振りを見せている。
このべつ甲細工は約千七百年前中国から長崎を経て伝えられ、聖武天皇の頃べっ甲を利用した刀剣等が奏良の正倉院に国宝として保存されている。江戸時代まではコウガイクジ花カンザジ程度だったのが明治維新前後外国艦船の出入りが激しくなってからクローズアップされ世界では日本の外.イタリアで作られるべっ甲が無地ものなのに比べ独特の彫刻もので外人の間にも珍らしがられるようになった。
原料のべつ甲は南方産の夕イマイと小笠原列島や沖繩でとれる正覚坊だが、正覚坊は牛の角にはる はりもの専門で普通べっ甲細工はこのタイマイが主原料。
江尸時代唯一の開港場だった長崎はこの原料の輸入が比較的やさしかったこともあって長崎で盛んになった。
明治の頃はコウガイクジの時代から外人向けの化粧道具セットや写真額、化粧セット 宝石入れの三段箱のほか・ペーパーナイフ、人力車 帆船等細工の腫類も拡がり。東洋の土産品として生産された。
この頃は専ら外国艦隊乗組員向けで業者は日露戦争(明治三十八年)当時長崎にあったロシア人(今のソ連)捕虜収容所が松山市に移ると、松山に出店を出し同四十一年アメリカの東洋艦隊が横浜に入港すると横浜に出張所を置くなどのこともあった。
このあと大正七、八年には業界の一部で東京の銀座や新橋に進出、宮内省の御用
達となり国内需要も増し当時帶止め等が流行した。
昭栩に入ってからもメガネやコンパクト タバコヶース等に人気があった。
このべつ甲細工は江戸末期迄は完全な仕事だったが明治末期には世界各国での回覧会などで高く評価され、数多くの入賞作品を出す程だった。
この技嬾面にも明治の頃ブレスに万力が導入され、昭和の初めに研磨盤や機械ノコ等がとり入れられたもの、曲げたべっ甲の彫刻等 手でないと出来ない部分が多く機械化にも限界があるのが業界の悩みだが、また機械では出せないところにこのべつ甲細工の価値があるようだ。サンフランシスコ万国博(大正四年)に(
岩上の″を出品、グランプジを受賞する等数々の作品を発表した長崎市今魚町
江崎べっ甲店の江崎栄造氏 (八二)はその優れた技術を保存の為、去る三十二年 県の無形文化財に指定されたが同氏は技術はモの人限りで各自が努力するものだと技術の厳しさを物語って
いる。
戦後は長崎市内に僅か四、五店といったさびしさで駐留米軍のPXにべっ甲製品を納め、この見返りに原料を輸入する一時期もあったが長崎県でも、この特産べっ甲業界振興のため二十八
年頃から東京、大阪、福岡等での物産展への出品を進めて宣伝紹介に努めた結果 各物産展で最高の人気を呼び本県展示物産売上げの三〇%を占める好成績。
去る三十一年福岡市岩田屋での長崎べっ甲展にっいで三士三年から東京三越でも同店を開催、このあと毎年東京三越、大阪高島屋、阪急デパート等で長崎県物
産斡旋所の協力を得て同展を開催。一回の展示会で百万円から百二十万円を売上げ去る六月中旬、東京三越での展示会では六日問で百三十万円とこれまで最高の売上げを記録、長崎べっ甲の名は東京大阪を中心に広く知られるようになった。
これには去る二十九年 三十五業者で長崎べっ甲商工協同組合を結成、キユーバペネズエラ等で中南米やアフリカから原料を共同購入して原価の切下げを図ったことも大きく影響している。
業界はこうした東京市場開拓の中で去る二月東京神田に資本金百万円で長崎べっ甲株式会社(社長川口繁蔵氏ゝを設立、県東京事務所協力で三越(都内支店四店)と伊勢丹(新宿)両デパートの口座猊得に成功、このデパートでの売上げは月平均二百万円に昇っている。
特にネックレスは中元前、三越で一日最高百本を売上げる人気を呼び、一目僅か二百本の生産量では間に合
わないこともあった。
ともあれ長崎ぺっ甲の生産量は年間七千万円、八千万円で二十七、八年に比べ二倍強の伸びを示している。
好評のべつ甲細工はネック
レス(千二百円〜四千円}・をはじめブローチ(三百円〜五千円.ネクタイピン(一
二百五十円〜五百円)カフスボタン(四百円〜千二百円)クシ(四百円各種等)の装飾品が中心となっている。
傍し業界ではこうした活況の中で@現代にマッチしたデザインによる新作開発。A技術者の養成。B海外への輸出の三点が大きな課題となっている。

九州新聞 1960年代(昭和30年代) 掲載日不明 より抜粋