苦難の道を開拓
よき師との巡り合い
川口は人生の師2人をあげる。べっ甲製作の師が六代目江崎栄造.事業の師が垣立寅蔵。江崎には直接弟子入りしたわけではないがその製作態度と研究心の強さを尊敬し常に江崎を目標として生きてきた。垣立はシンガポールにべっ甲を輸出し.材料を買い求めるなど貿易面のほかあらゆる事業に才腕を発揮した。川口が東京赤坂五丁目に長崎べっ甲株式会社を設立して.全国の一流デパートと取り引きすることになるのも垣立の影響が大きい。つまり垣立によって事業開眼をしている。この二人の師には大学で勉強する以上のものを得たといまも信じて疑わない。それは川口があらゆるものを消化して自分の身につける人間の素朴さを持っているとみてよかろう。川口の父栄蔵が長崎市鍛冶屋町かどに小さなべっ甲店を持ったのは明治26年だが.それより12年さかのぼる明治14年を創業の年としている。その年に栄蔵が本籠町の坂田べっ甲店に8歳で弟子入りし.べっ甲職人の苦難の道を歩き始め.川口べっ甲店の基礎を築いたからである。川口の祖父繁吉は久留米で食料品店をしていたが.思わしくなくて明治の初め長崎に出る。同じ久留米出身の小間物屋川口屋の帳面方となり.のれん分けのとき「川口」の姓をもらう。それまでの姓は.「高井」である。そのころは本河内に住んでいたが.暮らしは楽でない。栄蔵が小学校に行くか行かないかの年で坂田べっ甲店に弟子入りするのも.家の事情からであった。栄蔵は兵隊検査まで12年間坂田べっ甲店にいて一本立ちするわけだが.初めは内職同然である。材料を買ってきて徹夜をして一つの製品を作りあげると.べっ甲店に買い取ってもらう。その金で材料を買い.また製作にかかる。辛苦の末.ささやかな店を持つ。これがべっ甲職人の歩く道である。その例からみれば.栄蔵の場合.店を持つのは早かったかもしれないが.たどる経過に変わりはない。そして銀屋町の吉村金物店の娘カネと所帯を持つ。川口が生まれたのは明治38年。その頃店は鍛冶屋町から船大工町に移っている。べっ甲製品は外国人向きの商品だから.どうしても大浦寄りの方がよかった。明治41年.アメリカの連合艦隊が横浜に入港した。そのとき栄蔵は江崎と二人横浜弁天通りに出張販売に出かける。アメリカ人相手ではどうしても会話が必要だというので.カネは大浦の外人から英会話の速成教授を受ける。読み書きこそできないが.ブロークンな会話で意味は通じる。横浜の出張販売は大成功。一升マスに金貨を入れて神棚にあげたと.カネはのちに川口に話して聞かせた。これが契機となって横浜に支店を開設。支店長は栄蔵の弟藤吉。大正8年には新橋駅近くに東京支店を開設。この店の支店長は川口の姉ワカ。母のカネは自分の体験からワカを活水女学校にやり.英語を学ばせていた。宮内省各宮家御用達になり.昭和天皇がご結婚されるときは.結納のべっ甲化粧セットを納めている。夏は政府高官.各国の大公使が軽井沢に避暑に行くので.軽井沢に出張所を設ける。大正12年一家が軽井沢にいるとき関東大震災。東京.横浜の支店は全焼。栄蔵の苦労は水泡のように消える。再び支店を開設しようという栄蔵を川口はとめる。借財を重ねるだけだと思った。川口は東山学院を卒業して一年志願で大村連隊に行き除隊すると家業につく。江崎栄造の偉大さに打たれるのはそれからである。 上野屋旅館に注文とりに行くと江崎はサラサラと図案を書いて「こんなものならできます」と言う。和田三造画伯から絵の手ほどきを受けアドバイスを受ける。川口は製法は門前の小僧で知っているので.図案と彫刻に専念する。昭和8年.念願の浜町に進出。当時の金で二万五千円、翌昭和9年3月15日から5月26日まで長崎で大博覧会。品物は並べる間もなく売れ.博覧会の期間中で売れた金で家を新築。四千円。栄蔵は現場監督で新しい家を造ったが.それから4年目の昭和13年に死亡。65歳。川口は栄蔵の生涯を苦労の連続だったと思えば.なんとか東京支店開設の夢を果たしてやりたかった。昭和35年長崎べっ甲株式会社 (現在の ベオルナ東京) を設立したのは夢を実現したことになる。べっ甲.サンゴ.宝石類のほか.長崎べっ甲はソ連のコハク製品の日本専売権を持っている。これは北村徳太郎代議士の協力によるものだが.長崎べっ甲株式会社を調査したコハク公団副総裁のブロモフは「あなたの会社は日本の一流デパートと取り引きしているから大丈夫です」と快く承知してくれた。川口はつくづく信用のありがたさを知らされる。川口は自ら「店長」という。川口べっ甲は個人経営だから.それが当然と言うのだが.自ら店に立つ商人の心意気とみるべきであろう。川口は父栄蔵を含めてべっ甲職人のたどる苦難の道を忘れず.それを見事に開拓した。
長崎新聞社刊.「男性山脈」より抜粋