日経流通新聞 老舗 【長崎市】
べっ甲の川口べっ甲店
二代目の祖父.川口繁蔵の教え
商いに嘘があってはいけない。
商品に嘘があってはいけない。
古色蒼然の店構え
長崎の代表的特産品といえば決まって.べっ甲細工があげられる。その草分けとして.<江崎>がある。代も九代目あたりという記憶もあり.掛け値なしに江崎は老舗中の老舗だと思う。が.少々.考えるところがあり.江崎にくらべれば若い創業史を持つ川口べっ甲店を取り上げてみる気になった。若い.といっても創業明治14年(1881年).すでに百五年はたっている。取材を申し込んだ。ところが数日後.四代目・洋正(26歳)から手紙がきた。「川口の五代前の先祖は.久留米でべっ甲とはまったく縁のないことをやっていましたので.江戸時代からべっ甲細工をやりながらお菓子屋で生活をたてていた江崎さんがやはりいちばんふさわしいと思いますので…。」要するに江崎を差しおいて自分のところが長崎のべっ甲店.その老舗の代表のような感じになるのは遠慮したい.という趣旨であった。以前.有名なある老舗を取材するに際し.その三代目になろうかという人物の.同業者へのあからさまな罵詈雑言を聞き嫌な思いをしたことがあっただけに.この四代目・洋正の折り目正しさには感心した。同業者は競争相手だ。それが一地域内でのとなれば.キリキリ舞いをしたいほどに言いたいことはあるだろう。だが.同業者に対して口汚くののしる声を聞くのは心地いいものではない。お客だってそうにちがいない。それは品性の問題であってそういう店はお客も雰囲気をかぎ取るのではあるまいか。そういう体験をしているだけに.川口べっ甲店四代目の態度に心を動かされ.いっそう取材をしたい衝動に駆られ.いわば押しかけて行った。店は浜町通りの中央にあった。周囲の店々がリニューアルを重ね.いわゆる現代風を競っている中にあって.川口べっ甲店は.一種.古色蒼然としていた。
二代目の精勤で発展
川口べっ甲店は.二代目繁蔵(昭和59年没)が.業界の先輩.江崎栄造を尊敬し.その江崎を目標として精勤したことで発展した。江崎に直接弟子入りしたわけではない。商いの手ほどきを直接受けたわけではない。が.終生.その存在を恩とした。大正時代から昭和時代にかけての話である。江崎栄造も偉かった。この商売熱心な同業者後輩の存在を知り.詳細は割愛するが終始暖かく見守っている。こういう同業者同士のありようが.結局のところ.長崎のべっ甲細工とその商いの質を高め.全国的なものにした。同業者同士の「美談」は古くさく.語るに値しないだろうか。「美談」を商いに求めては経営は成り立たないものだろうか。そうは思わない。それが証拠に.四代目洋正である。父の三代目洋右は.昭和45年.37歳で.病で死亡した。洋正が成人するまで.祖父の繁蔵が頑張っている。洋正が大学を出て帰郷すると間もなく繁蔵も逝った。若い洋正にとって川口ののれんは重かったに違いない。しかし洋正は敢然と継いだ。前述したような繁蔵の心根のようなものが洋正には誇るに値する「自店史」に思え.それを自分の代で閉じてしまうのはもったいないようにも思えたからだ。と.洋正は言う。「火事場のクソ力という言葉があります。店構えもイマ風とはいえませんが.より良いものを誠実に売るに必要なギリギリのところから取り組みはじめました」洋正のこの出発点は誤りではなかった。全国のべっ甲愛好者の間で.たとえ店名は失念しても「長崎市の浜町通りの真ん中にある専門店が一番」と言われるほどになっている。