閉店
浜町からまた‘しにせの灯"消える
「川口べっ甲店」今月末閉店
バブル崩壊後経営悪化
新しい場所で再起図る
長崎が世界に縛る伝統工芸品「べっ甲」。 しかし、巣界は平成五年のタイマイの輸入禁止による原料の高騰や産業としての先行き不安、バブル経済崩壊後の景気低迷による売り上げ不振の三重苦″にあえいでいる。こうしたなか創業百十年のしにせの川口べっ甲店(長崎市浜町.川口洋正社長)が今月末で閉店する。三重苦″に加えバブル期に店舗を改装するなど過度の投資が経営に重くのしかかった。閉店後は別の場所に店舗を借りて営業を再開したい、としているが、浜町からまた一つ、しにせの灯が消えることに惜しむ人も多い。 べっ甲細エは江戸時代、中国から長崎に伝えられ装飾品として大名の家族や遊女などの間で珍重された。明治にはいってからは外国人の間でブームとなり「長崎べっ甲」は国内よりも海外でいち早く知られるようになった。同店は明治14(1881)年川口社長の曽祖父栄蔵さんが同市鍛冶屋町で創業。昭和8年から浜町に店を構え県内でいまも営業を続けているべっ甲専門店としては江崎べっ甲店(長崎市.創業1709年).二枝べっ甲店(同市.1877年)についで古い。現店舗は昭和57年から四代目を継いだ川口社長がバブル期の平成2年に約2億5千万円をかけて改装した。美術館や高級ブティックを思わす外観。吹き抜けや天窓からの自然採光を取り入れた内装とセンスあるディスプレイが評判となり平成3年には長崎市の都市景観賞を受賞した。しかし改装の際の借入れ負担やタイマイの輸入禁止で材料確保に多くの資金が必要になったこと。ピーク時には1億3千万円あった年商がバブル崩壊後には半分の7千5百万円まで落ち込んだことなどで経営が悪化。昨年10月には負債整理のため現店舗が競売にかけられ落札した同市内の宝飾店から立ち退きを求められていた。閉店に当たって同店では26日まで在庫処分セールを実施中。定価の3から4割引きで提供していることもあって閉店を惜しむ人やべっ甲ファンの女性客らで連日にぎわっている。川口社長は「時代の流れや自分の力不足で長年続いた店を閉めることになった」と無念の表情。「店は失ったが材料.商品.職人は残っておりできるだけ早く新しい場所で再起を図りべっ甲の良さを伝えていきたい」と話している。日本べっ甲協会(本部長崎市)によると平成4年までに全国で約290社(県内105社)のべっ甲業者があったがタイマイ輸入禁止後は倒産や廃業が相次ぎ平成8年12月末では全国で260社(県内90社)に減少している。
;長崎新聞
老舗べっ甲店(長崎市)が閉店
移転して再出発へ 原料の輸入禁止.バブル崩壊が影響
県内一の繁華街.長崎市浜町のべっ甲専門店「川口鼈甲店」(川口洋正社長)が1月31日に閉店した。1891年(明治25年)に開業したしにせだが原料となるタイマイの輸入禁止や売上の低迷。」バブル経済ピーク時に店舗改装に多額の投資をするなど悪条件が重なった結果だった。川口社長は「商品や材料.職人は残っている。場所は移ってもべっ甲文化を守り伝えあていきたい」と話しており現在浜町周辺で移転先を探している。美術館を思わせる造りで吹き抜けから自然光を取り入れた高級感あふれる店舗は1990年に約2億5千万円を投じて改築。しかし93年にはタイマイ輸入が全面禁止.バブル景気も崩壊した。売上もピーク時の半分.年間7千5百万円程度に落ち込み危機的な経営状況に陥った。そして昨年十月、店舗が負債整理のため競売にかけられ、落札した長崎市内の貴金属店から立ち退きを迫られていた。26日まで8日間実施した在庫処分セールでは「いよいよべっ甲もなくなる」と思い「定期預金を解約した」「なくなるのが惜しい」と地元の人が連日詰め掛けた。「かたくなにべっ甲にこだわってきたうちへのお客様からの拍手ですね」と川口社長は話す。浜町にはかつて10軒以上のべっ甲専門店があったが川口鼈甲店の撤退でわずか2店になった。全国的にもべっ甲業者や専門店の倒産や弊店が続いている。
西日本新聞