二.西の丸のお姫さま


長崎代官がすっぽんを献上したときに、上さまは
「すっぽんとは、かわいいものを特って参ったものよ」
とほおえみます。
---昨年のことですが、長崎のオランダ・カピタンが象(ぞう)を献上いたしましようかと申し出たときに上さまは
「あんな大きな生きものは、住まわせる場所に困るし、それに毎日の食べものが大変じや」
と言って、ことわったのを思い出されたのです。
側用人の阿部丹後守が
「そのすっぽん、珍しいことに人語を解し、しかも芸達者で、よく人を笑わせると申しまする」
「芸達者か………あの無器用なすっぼんがのう。なるほど、おもしろいやもしれぬな」
そう言って上さまは大きくうなずきました。つね日ごろ、いとしく思っている西の丸の姫君のことを思い浮かべておられたのです。
西の丸の姫さまのお部屋の前庭には池があって、その池の向こうは築山、それから雑木山とつづいていました。そのお庭で、すっぽんの芸をごらんになることに決まったのです。
「すっぽんの芸は、上さま・姫さまとおそろいにてご覧下さいますように……」
と長崎代官が願い出たとき、上さまはちよつと首をかしげられましたが、すぐ、にっこりとなさって
「よかろう」
とうなずかれたのでした。
その日、上さまは側用人の丹後守だけをつれて西の丸へおいでになりました。
春のはじめの日の光がぼかぼかとあたたかでした。やぶかげには紅梅が咲きにおい、それに朝日がさして、うぐいすがしきりにないていました。
上さまと姫さまとは、同じ江戸城内に住んでいながら、こんなうららかな朝の光のみちた庭を、いっしよに歩くというすばらしさを、いままで一度も味わったことがなかったのでした。だから、あの気むずかしい姫さまも、きようは上きげんでした。
「ねえ、おとうさま」
上さまによびかけます。
「ほんとうに、人のことばを聞きわけるすっぽんがいるかしら:::‥.」
楽しくてたまらないといった姫さまのはずんだ言葉に、上さまもつり込まれて
「いるだろうよ。馬や牛、犬やねこ、小鳥などにも人のことばを解するものありと、昔の本にでている」
日ごろは上さまだの姫さまだのとよばれ、近侍や侍女たちにとり巻かれて暮らす二人なのです。その父と娘が、今はまるでニ人っきりの世界を楽しむように、仲よく肩を並べて歩いています。その姿は、はたの見る目にもうれしいものでした。
ことに姫さまのお顔は側の紅梅の花の色に染められて、ほんのりと赤らみ、特別に美しく輝いているのです。姫さまは、ほんとうに楽しげでした。歩きながら口ずさみます。
春まだあさき 紅梅のいろ香めでたき庭の‥…:‥
その時です。かたわらの池の水面に、ポッカリとすっぽんが浮きあがりました。そして、ガサゴソと岸へはいあがると、首を長ながと伸ばして姫さまを見あげ、のっそり・のっそりと歩きはじめたのです。姫さまの後にいた侍女の一人が、上さまのご前ということを忘れ、
「まあ − このすっぽんの威張りようはどうだろう………まるで、けんかに勝った町っこのような、屑のいからせよう………」
とロをすべらせ、丹後守に、
「ご前であるぞ、つつしめ」
たしなめられ、侍女は恐縮して首をちぢめます。その格好がすっぽんに似ていたので、ほかの侍女たちが思わずクスクスと笑いました。そこでまた丹後の守が
「何たることか、不調法な……」
口をへの字に結んで見せます。
「まあ、よいわ。きようはすべて、くつろぎじぁ」
上棟のことばに、こんどは丹後守が上下姿の首をちぢめて恐れ入ります。日ごろ威張っている側用人の丹後守ですから、まず、姫さまがクスクスと笑い声をもらしたのです。その笑い顔の、なんという愛らしさ…‥…上さまは、初めて見る姫さまのすばらしい笑顔にわれを忘れて見とれていらっしやるのでした。まさに千金の一笑でした。
そのあとのすっぼんの木のぼりやら綱渡りやらは、すっぽんがとくべつ入念に演じたこともあってすることなすことすべてもう姫さまを笑わせどおし  − 。
上さまことのほかご満足でした。
後日、長崎代官が呼び出されました。上さまが
「すっぽんをあれほどまでに仕込んだ亀八とやら、少年ながら非凡の人材らしい。会うてみたい」
お代官は、ややためらって
「亀八は百姓の子供、礼儀作法を心得ておりませぬ。また、その亀八がわたくしに申しますには −このたびのこと、すべて、すっぽんの手柄ではなく、上さまのお手柄だなどと………」
側から丹後守が
「おせじを申したな」
「いいえ、おせじではござりませぬ。あの朝、姫さまは生まれてはじめて父君と屑を並べてのそぞろ歩き………それが、うれしくて楽しくてたまらないところへ、あのひようきんもののすっぽんが、しやしやり出て、笑の泉のふき出口を開けたに過ぎない。そのように申しており享する」
お代官のことばに何度もうなずいて、上さまは
「おもしろい少年よ。ますます会ってみとうなった。手配せい」
丹後守に命じます。
次の日、西の丸のお庭には、このあいだと同じようにうららかな朝日が満開の紅梅にふりそそぎ、うぐいすが枚移りしながら、しきりに鳴いていました。
このあいだは、身分をはばかって姿を見せなかった亀八が、今日は上さまのお呼び出しに応じて参上するのです。姫さまも侍女たちも、どんな少年が来るのかと楽しみにしている様子でした。
その侍女たちを従えて姫さまが花の咲きそめたやぶつばきの木影まで来ますと池のほとりに、だれやらたたずんでいるのに気付きました。前髪立ちの、がっちりしたからだつきの立派な少年なのです。姫さまが
「あれは、亀八かしら」
首をかしげますと、侍女の一人が
「たぶんそうでございましよう。長崎の田舎者ゆえ、ご禁制の奥庭も知らず、ひとりでのこのことはいり込んで来たのに相達ござりませぬ」
姫さまは興味深げで、木立ちに身を寄せながら、足音を忍ばせます。
そんなことを知ろうはずもない亀八です。池のすっぼんに話しかけているのでした。
「姫さまの父さんは上さまのけん、めったに会われんとたいね。それが寂しかけん、気むずかしうなったり、笑いを忘れたりするお気の毒なお姫さま:…‥。それをおなぐさめして、お幸せにしてやるとがお前のつとめぞ。よろしいか」
聞いていて姫さまは、わけもな′く胸にジィーンとくるものを感じるのです。そしてまたちよいと腹立たしくもなるのでした。この生意気な田舎者をどうしてくれようか-----そう思って、あたりを見まわしたときのことです。西の丸の警固の武士たちが数名、おっとり刀で
「何者ぞ」
「怪しいやつ」
「ここは男禁制ぞ」
刀のつかに手をかけてつめ寄ります。亀八はびっくりしたようでしたが、あわてふためくことはなく、落ち着いて
「おらあ、なんも、悪かことはせん。刀も持っとらん」
腰をたたいて見せます。その平然とした態度に、おっとり刀の武士たちがあわて気味
「なにしに来たのか」
「おらあ長崎の百姓の子で亀八というもの。上さまによばれて来とっと」
上棟によばれて………と聞いて、武士たちは顔を見合せます。それを見ていて、姫さまがまた、クスリと笑いました。ひとりぼっちで、素手の亀八が、おっとり刀の大ぜいの武士たちを見下して、威張っているのが、とてもおかしかったのでした。
そこで、姫さまが先に立ち、侍女たちがあとに続いて、美しい少女たちの群れが亀八をとり巻いている武士たちに近づきます。
「このものは、丹後守によばれての参上ゆえ、怪しいものではありませぬ」
姫さまのやさしいことばに、武士たちはホッとして立ち去ります。
「そなた、亀八か」
笑顔で問いかける姫さまです。
その姫さまの美しさに、亀八はびっくりしてしまい
「は…はい……あのう、ながさきの、いなかもんのけん……えーと……お城のこと、なんにも知らんで、あのう、かんにんして……」
しどろもどろです。でも、その態度は真剣で、実直で、みっともなさ、みにくさはなく、かえってあいきようがありました。
「そなた、長崎代官のお小姓か」
「いやあ、おらあ、長崎在の百姓………」
そう言いかけて、自分のお小姓姿に気付き、てれて、苦笑します。
「長崎では、百姓が小姓姿ですか」
「そんげんことはなかばってん、花のお江戸のお城へ、土くさい百姓姿でいっては、失礼じゃろうというて、お代官に、こんげん着物ば着せられ、もう、やぜくるしゅうして…」
「やぜくるしゅうして」 とはきゅうくつな「」とです。
姫さまはニコニコ顔 −
「そなたはお小姓姿がよう似合います。百姓はやめて、武士になりませぬか。そしてここのお庭のお守り役になれば、毎日、すっぽんにも会えますよ」
亀八は目をまんまるくして、姫さまを見つめていましたが、やがて
「おらあ百姓のけん、やっぱり母さんと畑仕事ばするとがよか。お寺のお坊さまも、農は国の宝じゃというとらす。また、百姓が国を豊かにすっとじゃと、うちの母さんに聞いとります」
姫さまはうなずきます。その姫さまの着物のすそを、さっきから、あのすっぽんがくわえて、しきりに引っばるものですから、すそが乱れます。
「まあ………お行儀の悪いすっぽん」
姫さまは、そういいながら、引っばられるままに歩きはじめます。亀八と侍女たちがぞろぞろとそれにつづきます。
庭の奥の雑木やぶまで来ると、すっぽんは、こんどは亀八のはかまのすそにしがみつきエッチラ、オッチラのぼりはじめました。はかまがゆらゆら揺れるので、とてものぼりにくそうなのですけれども、すっぽんはただもう一生懸命です。すべり落ちそうになると、口まで使ってはかまに食い付いたりしながら、どうにかのぼって行くのでした。亀八は平気で、すっぽんのするがままにまかせているのですが、姫さまや侍女たちはあきれ顔で見つめています。
すっぽんは、はかまから着物、それから屑とのぼり、休みもしないで、とうとう亀八の頭の上に、ちよこんと座ってしまいました。そして、首を長く長く伸してあたりをながめ回しているのです。
やがて見当がついたらしく、こんどはあとすざりをしながら、そろりそろりとおりはじめます。用心をしているのか、それともおりにくいのか、とてもおかしな格好なのです。
侍女たちは、はじめのうちクスクスと忍び芙をしていましたが、はかまのあたりになる
「やれやれ……あぶない」
「そうら、……すべった」
「しっかり、しつかり……」
「ほうーら、落ちそうだ」
などと、調子をとったり、はやし立てたりするものだから、すっぽんは、とうとう、きよろきよろと、あたりを見まわしはじめましたが、もうあとわずかというところで、前足のつめをひっかけそこね、スットンと、落ちてしまいました。みんなの大笑いです。
でも、落ちたのは、低いところだったので、すっぽんは委細構わず、また、姫さまのすそをくわえて、やいこらせっせと引っばり引っばり、雑木やぶへふみ込みます。そして、あちこち、キョロキョロ見まわし、山いもを探して、その根もとの土を前足で城りはじめます。
亀八が姫さ享に
「きようは山いも掘りばして、いもがゆでもお作りなさいとおしえよります」
それを聞いてお姫さまは大よろこび、大はしゃぎをしはじめ、さっそく、土掘り道具を持って来させるやら、たすきがけをするやら、侍女たちも総がかりで掘りはじめましたが、下手な掘り方をすると、山いもがだめになるので、亀八は
「急くな、あせるな………気長に、長う長う掘るのぞ」
と言ってまわり、自分でも掘りはじめはしたものの、側で掘っていた侍女が
「あらっ、折れた」
と短い山いもを、うらめしそうにぶらさげて見たりすると、
「急いては事を仕損ずる………ゆっくり、あせるなぞ」
と言い言い、また一めぐり、注意してまわるのです。
上さまが丹後守のおともで西の丸へおいでになったのは、ちようど正午ごろ----姫さまご自慢のいもがゆが、見事にできあがったところでした。
上さまは、席につくと、
「ほう.すっぽんが教え、姫が亀人らとともにいも掘りをして、いもがゆを作ったと申すか。それは楽しみぞ」
にこにこ顔で、一座を見渡されます。丹後守が
「あれに、ひかえておりまするのが、亀八にござりまする」
亀八は遥かな末座にかしこまっていたのでした。上さまが
「亀八、近う参れ」
お声がかりです。亀八が前に進み出ました。
「そなたの、このたびの、とりはからい、過分であった。父と娘の愛情というものは、楽しくも、うれしいものよのう」
しげしげと亀八を見つめ
「そなたへのほうびには、何をとらそうか」
と笑顔なのです。亀八は悪びれたところもなく
「おらあ、姫さまが楽しそうにしておられるので、それがうれしか。そのほかには、江戸におるあいだ、毎日、福の神のすっぼんに会いに来ることを許してくだされば、それでもう十分でござりまする」
「欲のない少年よ」
上さまは、ますます上気げんで
「そなたのような子供が育ったのは母ごの教えによるもの。-----よって、そなたの母ごがもっともよろこびそうなものを、長崎代官に申しつけでとらせるほどに、楽しみにして帰るがよい」
亀八は額を床板にすりつけてお辞儀をしました。
姫さまが、いもがゆのお膳を自分で運んで来て、上さまの前におきます。いそいそと、にこにこと、とても楽しそうな姫さまを、目をうるませながら見ておられる上さまでした。
その上さまのかたわらに、姫さまが着座されると、侍女たちが、それぞれの膳部を運んで来ます。亀八の前にも、上さまと同じお膳がすえられたので、亀八は目をパテクリしています。まったく、江戸城内において、上さまが長崎在の百姓の少年と向いあって食事をなさるというようなことは、とんでもない前代未聞のできごとなのでした。しかも上さまが
「姫とともに、こうして食事をするのは初めてぞ−−しかも姫が手作りのこのいもがゆ……‥・なんと、まあ、おいしいことか」
亀八は、上さまの声が、しつとりと涙にうるんでいると感じたのでした。

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