三.べっこう.いのち


卒業式の日−−−
彼岸曇りの、どんよりとした朝でした。枚庭の朝礼台の前に立って、真正面に見上げられる上小島の丘の孟宗竹の犬きな茂みの中央に、そこだけが白じろとひらけて、一本の大きな彼岸ざくらが、ちようど花を咲かせはじめていました。
日ごろは平気で欠席する連中も、この日だけは、みな神妙な顔つきで、はかまをはき、羽織姿でーー一紋付きの子もいましたーーかしこまっているのです。
卒業証書を右総代″で受けとったのは別所でした。わたしたちより二つも年長者で十五才でした。父親が木造帆船−−二本マスト、発動機つきーーをもっていて、家族全員がその船上で生活していたのです。かなり犬きな船で、北は朝鮮から、南は台湾まで、いろんなものを運搬していたのです。だから船の基地である長崎港に停泊している期間が短かく、海上を航行している時間の方が長かったために、義務教育である小学枚にさえ出席できず、父親は何度も市役所に呼び出されて
「義務教育を何と心得ているか。子供が十五才になってしまったら、もう学枚教育は受けさせませんぞ」
としかられて、九つになった時の四月、長崎市内の知人の家に寝とまりすることとなり、やっとのことで、小学一年生になれたのでした。だから、一年生の時から、からだは犬きいし、勉強もできるし、足も速くて運動会ではいつも一番になるし、落付いていて、クラスでも、もっとも人望があり、六年間、級長をつづけていたのです。右総代≠ノはふさわしい別所でした。
でも、式の最後に卒業生代表として 「答辞」 を読みあげたのは、女生徒の中村さんでした。八坂町の祇園さまの下の乾物屋のお嬢さんで、ちよつと気どり屋さんでしたが、女組が男組とけんかする時のリーダーは、いつもその中村さんでした。歯切れのよいタン力には別所もかないませんでした。読本を朗読させると、音吐朗朗、わたしたちはうっとりと聞きほれてしまったものでした。そんな中村さんでしたから、その答辞よみにはだれも不服を唱えるものはいなかったのです。
けれども、女組での、第一等の才媛は紙谷さんだと、わたしは、ひとりで決めていたのてした。
一年生の時の、わたしたちは二部授業でした。男組が午前中授業の時は、その同じ教室で午後は女組の授業なのです。それで、わたしの座席には、女組のどの子が腰かけるのだろうかと、それが気になり、午前中の授業がすんでも帰らないで運動場にいて、女の子たちが登枚して来るのを待って、そっと窓からのぞいて見ました。すると、わたしの座席にいたのは紙谷さんだったのです。わたしと同じ町内で、家は近くでしたし、母が、 
「紙谷さんの嬢ちゃんはお利口で、べっぴんじゃもんね」
と言っていたので去年のおくんちのころからわたしの犬好きな子だったのです。わたしは犬満足でした。
その後、あれは何年生の時だったか、学芸会で、合唱に出たことがありました。男組と女組とから数名ずつ選ばれて壇上に出て、うたったうたは、
ポ・タ・り
土の上に
ちィさナおとォが ころがりおちィた
ハ・テ・ナ
なアニーが.おちた
ポ・タ・り
また きこえる
障子を あけェて よくよく 見れーば
アッ・ハッ・ハッ
つーばァきーの は・な
うるおぼえだけど、そんな、へんてこな歌でした。その時、紙谷さんは女組の右端、わたしは男組の左端だったので、二人は並んでうたったのです。紙谷さんの声が、わたしの左の耳にビンビン響くのです。いい声だなあ、おれの声は、とてもかなわん=@と思っ小
ことてした。
それからまた、六年生になって間もないころ、担任の土石先生がお休みで男女組合わせて枚長先生に引率され、風頭山下の墓地群を回ったことがありました。枚長先生は有名な郷土史家でしたから、市の功労者の墓地では、話がとても詳しくて、午前中かかっても、やっと三つしか回れなかったのでした。四っ目に行ったのは、たしか、崇福寺の上あたりでしたが、とても広びろとした墓地で、そこで枚長先生が、
「さあ、この広い墓地はどなたのか、気づいた人はいませんか」
とにかく、おびただしい石塔の数−−−しかも、どれも犬きいのです。刻まれている文字を見てまわっても、むつかしい漠字が多くて、とてもだれの墓やら見当もつきません。
まごまごしていると
「はあーし」
と犬きい声をはりあげた者がいます。見ると、紙谷さんでした。
「やぁ一紙谷さん、わかりましたか」
枚長先生がおっしゃると、
「はいーやくしじさんです。ここに書いてあります」
紙谷さんが、はっきりと答えました。
「その薬師寺という漠字が、よく読めましたね」
枚長先生にほめられて、紙谷さんは、テレクサそうに、首をちぢめました。そのしぐさが、とても可愛いかったのです。
そのころ、わたしの犬きい姉が与謝野晶子の口語訳源氏物語を読んでいましたので、わたしが
「その本の著者はだれ」
とたずねると、姉は
「紫式部という才媛よ」
「さいえんって、なに」
「学問のある、すばらしい女性のことよ」
そんなら、紙谷さんは小島学枚第一等のさいえんだと、わたしは思ったのでした。
今日の卒業式には、もう一人、珍しい男の子が出席していました。わたしたちがマインとよんでいたその子は、札つきの不良で、六年生の一年間のほとんど半分は欠席−−−それも築町や浜の町で方引きの常習犯で、警察のお世話になり、それで学枚へ来られなかったという日が多かったのです。目のクリクリした可愛いい顔だちで、身なりもきちんとしており、利口でおべんちゃらでしたから、学枚へ来てさえおれば、教室では人気者だったのです。両親は築町中央市場の魚屋で、早朝から夜おそくまで多忙でした。そこのひとり息子でしたから、上小島の家に帰ってもだれもおらず、つい、両親がいる店へ出かけて行き、店の銭箱から一にざりの銭をつかみ出して、浜の町を遊びまわったのが病みつきとなり、方引までするようになったのでした。
卒業まぎわになって、今後、まじめになりますから″と先生がたにたのんで回り、その特別のおはからいで、今日は、まじめくさった顔つきで、式の最前列の席に腰かけることができたのでした。
卒業式のあとで茶話会をしました。
誰が言い出したのかは、覚えがないのですけれども、もう六年生にもなると女子の方がずっとおませさんでしたから、たぶん、女組が言い出し、それに男組が賛成したのだったろうと思うのです。
たしか十銭会費だったようでした。はっきりした記憶ではありません。その僅かの会費でさえ、農家の子はいやがりましたので、そんなら現金のかわりに、さつまいもでもよい
ではないか、もういもの苗床も出来たろうから、残りのありあわせのものでも結構だ、ということにし、会費で買ったのは、まんじゅうと、長崎製菓の安売りビスケットだけでした。先生がたも招待しましたので、飲みものーーといってもお茶だけでしたが、それを先生がたが出してくださったのです。それで、なかなか結構な、お別れパーティになりました。
十二時半にはじまって三時まで、にぎやかなことでした。いもも饅頭もビスケットも思ったより十分にありましたので、みな、よい気特ちになり、かわるがわる立って、思い出話しやら、将来の希望やらをのべたりしたものです。
男組で中学入学が決定していたのは、わたしひとりだけだったのです。ほかにも県立中学や市立商業を受験する者が四名ほどいたのですが、二枚とも競争率が高く、合格可能性はほとんどなかったのでした。実をいうとわたしも、はじめは県立中学を受験するつもりでいたのでしたが、私の姉が、
「小島のように先生が足りなくて、自習ばかりの学枚から県立中学や市商は無理よ。それより、小学枚の成績さえよければ無試験で入学させてくれる私立中学に行って、七人もいらっしゃる外人の先生に、みっちり外国語をおそわった方がよかよ」
と言い、わたしもそう思ったのでした。わたしの通知表は、修身から読方・書方・殿方・歴史・地理・算術・理科まで八科目がずらりと並んで「甲」 でしたので、それを特って母
と一緒に中学枚へ行きましたら、偉大なる体格の外人の枚長先生と、同じフロック・コートの日本人の先生とがお二人で出て来られて、日本人の先生が通知表を受けとり、つくづくと見て、
「ふむ、八科目 「甲」だね。勉強すきか」
「はい」
と答えると、
「よろしい」
とうなずき、通知表を枚長先生に渡して、何やら外国語でベラベラベラと話し合ってから、枚長先生が、眼鏡の奥の目をやさしくほおえませて、
「せいせき、よろしい。入学、許可します。べんきよう、しつかり、しなさい」
日本語でそう言い、部屋を出て行かれました。日本人の先生が母にこまごまと入学手続きの話をしておられる間、わたしは部屋の中を見まわしました。その部屋は応接室のようでした。高い天井も広い壁も、まっ白なのです。重そうな力−テンが垂れている窓が西向きらしく、午後の陽光が明かるくさし込んでいました。壁にかけてある油絵はヨーロッパの風景らしかったし、その下にはマントルピイスがあって、ブルーの花びんにももの花が生けてあり、それと向きあった隈には、ドイツ文字らしいアルファベットの書いてあるピアノが置かれていました。中央に置いてある犬きな長方形のテーブル。それを囲んでいる椅子−1それは、子供ひとりでは、ちよつと動かしにくいと思われるほどの犬きさなのです。たしかに、そこはヨーロッパの部屋なのです。あの偉犬なる体格の外人の先生がいらっしゃるのにふさわしい部屋でした。
つい数日前に、そこへ行ってきたばかりでしたので、わたしは、わたしの順番になったら、その外人枚長先生の、日本語の珍しいアクセントをまねて、みんなに聞かせようかと思っていたのでしたが、結局、それはやめました。まだ入学試験をすませていない友だちに対して、なんだか申しわけないように思ったからでした。
茶話会は楽しく、でもお別れにふさわしい穏やかさで進行していたのでしたが、マインの番になって、それがかき乱されはじめたのでした。
マインは自分の順番になると、のこのこ正面の教壇に出かけていきます。別所が
「自分の席で話せよ」
注意すると
「いや、おらぁ、話す前に、得意の歌ばうたうけんね」
と言い、ににこ顔で、とくに女生徒の方に向いてお葬儀をし、
「えーと………ただいま、犬ばやりの、松井須磨子がうたった 力チュウシャのうた
ばうたいますけんね」
といって、ぴよこりと頭をさげますと、二・三人、パチパテと拍手したものだから、マインはすっかり上気嫌で
「どうもありがとう」
と、もう一皮おじざをし、それから耳に片手をあて、目を半眼に開き、昔をふりふり
カチュウシャ かわァいーや、
別れェ−のつらさ
せめーて あわァゆーき と
けーぬゥまァ一に
かみ一に ちかァいーを ラ ラ かーけェ−ましよーかァ
なかなか上手でLた。また、だれかがパチパチと拍手です。マインは笑みこぼれながら
「カッサイ、どうも、ありがとうござりまする。おほめにあずかって、二番、三番とうたわねばならんどばってんか……ええと、時間の都合もありますけん、うたはこれだけどいたしまして……」
そこで、急に、まじめくさった顔になり、
「おれ−−六年生になってから、よぅ、休んだろがね………あれは、小学枚ば卒業したらどんな道ば進もうかと思うてさね、長崎の町ば、あっちこっち、よう見て回ったとぞ。町は広かし、会社や銀行や官庁も多いし、店の種類も無数と言ってよかごと、たいそうあるし………それば一つ一つ立ち寄って見てまわるとのけんね………一か月や二か月では、てけんことがわかっとるもんね」
そこで、一同をぐるりと見回わします。それから、マインがしゃべる時のくせで、ペロリと舌なめずりをします。
「半年あまりかかってさ、やっと、一番よか商売を見つけ出Lたとばい−−みなさん、それは何だと思いますか」
ちよつと、みえを切り、ポーズをおいて、両腕を胸に組んでみせるのです。だれかが小さい声で
「方引きじゃろ」
と言ったものだから、あちこちでクスクスと笑い声が起こりまLた。マインは平気で
「方引………そんげん、下品か商売じゃあなか。上品で、カポカポ金がもうかって、それで、きれえか商売ぞ。しかも、長崎という町にはうってつけのよか商売−−−こう言えば、賢明なるみなさんは、もう、ああ、そうかと気付いとるじゃろが……そうさ、べっこ
う屋だ」
そう言って、また舌なめずりをし、パチパチと目ばたきもしてみせて、
「な、みんな、知っとるかい、……ほら、浜の町でさ、一番きれえか店………あすこのショー・ウインドウには、力チュウシャのごたるきれえか美人の人形が飾ってあろうがね。おらあ、あすこのべっこう職人になっとぞ。うちのおふくろが、あすこの一番番頭と仲よ
しでさ、ちゃんと、もう話は決めてあるとのけん、おらあ、あしたから職人になって、あの浜の町第一番の店で働くとぞ」
どうだ、うらやましかろうが、えっへん………と言いたげの表情で、うそぶくのです。
すると、わたしの隣りの席にいた藤チイが立ちあがり、
「おれのうちがべっこう屋のけん、よう知っとるが………べっこう職人には、そう簡単に、おいそれとなれるものではなかとぞ」
マインは、ちようどまんじゅうを口に入れたばかりのところでしたので、あわてて、目を白黒させながら、それをのみ込んでしまい、立ちあがると、お茶をガブリとのみ、
「いま、藤チイが言うたとおりさね、みなさん。抜術者というものは、決して、なまやさしかものではなかどばってん、そらあ、人によりけりというものさ………頭の働きがするどくて、手さきの器用なもんは、もう七つ八つのころから、神童といわれて、犬人以上の仕事ば、やってのけるものもおる。ことわざにも石の上にも三年″と言うけんが、おらあ、神童じゃあなかばってん、まあ、三年もやれば、結構一人前の仕事はやゥてみせらるると思うとる。……中学枚に行って、五年間も遊びくらすより、その方がずっと有意義というものよ」
そういって、わたしの顔をじろりと見るのです。わたしが中学枚に入学しているということを知っていて、何か一こともの言いたげの態度でした。
中学枚で遊びくらす≠ニは何ごとか………わたしは犬いにフンガイして、立ちあがろうとしますと、藤チイが、小さい声で
「おれにまかせとけ、おれもフンガイしとっとぞゾ
そう言い、それからマインに、まるで兄が弟にものを教えるような口調で
「三年でやれたら、そらあ神童たい。べっこう職人の抜術は、そんげんなまやさしかものではなかとぞ。学問をする人が、中学から高枚、犬学と進学して、卒業するまでに十年あまりはかかるごと、ほんとうの、すぐれたペっこう職人になるには、やっぱり十年間はかかるとぞ。うちのおやじはね、いつも、ペっこう犬学に行くつもりで、十年間修業と思えと言うどる。実は、おれはもう去年の夏から、椋の葉とりと木賊集めばさせられよる。
マインは木賊採りばしたことあっとかい。べっこう職人の第一歩は、それからはじまるとぞ」
藤チイの意見には、権威がありました。実践者のことばだからです。そのすばらしい説得力に、マインは参ってしまったらしく、隣りに座っている子に
「おい、とくさって、なんだい」
と尋ねているしまつなのです。
けれども、方引で何ども警察に引っばられていながら、その都度、なにやかやと言いのがれ、盗品をかえしたり、代価を母に支払ってもらったりして、帰って来るマインのことですから、藤チイに圧倒されたからといって、決してだまって引きさがるようなことはな
いのです。マインの奴、左右にいるとりまき連中−−といっても二人っきりなのですが、方引したものを分けてもらえるのがうれしくて、マインについて回る勉強ざらいのわるくろなのです。それたちと、何やらこそこそ話し合っていましたが、やがて、小さい声では
あったけれども
「泣き虫、毛むし、オランダの尻ぬぐい」
指先で机をたたいて調子をとりながら、はやしたてて、わたしの顔をちらちらっと見るのです。
「泣き虫」とは、わたしのことでした。五年生の歴史の時間に土石先生が、桜井の駅の楠公父子の別れを、あわれ深く、しんみりとお話しなさったのです。その前に、わたしは父を亡くしていたものですから、その話がしみじみと身にしみて悲しく、がまんしようと努力しても、どうにもがまんできなくて、つい、ほろほろと涙を流してしまったのでした。すると、わたしの隣席にいた近藤が、
「あらっ、泣きよっとぞ」
声に出して言ったものですから、みんなが、わたしの方を見ます。すると先生が、
「正成・正行父子の別れは、いつ聞いても哀れ深いもの………涙を流すのはあたりまえだよ」
と言って下さったのでした。ところが、わたしが教室で泣いたのは、その時だけではなかったのです。その後、今度は、伊藤先生の音楽の時間のことでした。その年の三月に.女子師範学枚を卒業なさったばかりの若い先生は、唱歌の時間や、補欠の時間などにバイオ
リンをかかえて教室に来て、きれいな曲や新しいうたを、奏でたり、うたったりして下さったのでしたが、いつだったか、
「今日は、七里が浜の衷歌といううたを、みなさんと一緒にうたいましようね」
とおっしゃって、黒板に、・まず、「七里が浜の哀歌」 と書き、それから
ましろき ふじのね みどりのえのしま
おおぎ みる目も いまは なみだ
かえらぬ 十二の おおしき みたまよ
ささげ まつる むねとこころ
と書き、それを、みんなに声を出して読ませ、また、この歌がどうして作られたかを話されたのでしたが、話しながら、先生はポロポロ涙を流し、声をつまらせていらっしやつたのです。いよいよ、わたしたちもうたい始めたのでしたが、かえらぬ十二の、おおしきみたまよ……=@のところになると、なにかしら、胸にグウンとつきあげて来るものがあって、涙は流すまいど、がまんにがまんを重ねたのでしたが、こんどもまた、つい、涙を流してしまい、とうとう「泣き虫」 にされてしまったのでした。
でも、お話しや歌に感激してしまうのは、どうやら、わたしの天性らしく、ひとりで童話や物語りを読んでいても、つい涙が出て字がかすれてしまうこともしばしばでしたから、「泣き虫」だと自分でも自覚していて、わりに平気だったのです。それにしても「オラン
ダの尻ぬぐい」は、どうにも、がまんできませんでした。マインたちは、わたしが外人枚長の中学へ入学したことをそしるつもりだったのでしようが、わたしには「尻ぬぐい」 という下卑たことばが、カンカンと頭にきて、どうにもがまんできなかったのです。
「チキショウメ」
わたしは、立ちあがりました。すると、また藤ティに、着物を引っばられて、座らされてしまいました。提ティが、わたしの耳もとで
「くだらんことじゃんか………知らん顔、しとけよ」
とささやきます。そう言われてみると、それもそうで、知らん顔ですませてもよいことに思えましたし、それにまた、タイミングよく女生徒の中村さんが、
「三時になりましたから、それでは、みんなでほたるの光″をうたって、お別れにしましよう」
と言い、みんなも立ちあがって合唱となってしまったのです。
わたしは、この時ほどしみじみと、あのうた………いつしか年もすぎの戸を、あけてぞけふは、わかれ行く……≠、いい歌だなあと思ったことはありません。
解散したあと、女子組と男子組の世話役たちが残って、会場のあと片づけや、掃除をしました。
紙谷さんが、先のすり切れた古いほうきで掃きながら
「この、でこぼこ床を掃くのも、きようが最後よねぇ」
しんみりと言います。紙谷さんと同じ室にこうLておれるのも、今日が最後なのです。
そう思うと胸がせつなくなってくるのでした。
「同窓会をやろうよ」
藤チイが言って、別所に
「来年の三月がよかぞ、忘れんでくれよ」
別所は、首をかしげて、ひどく、しよげた声で
「おれ、船に乗るから………来年の春は、どこにおるかわからん」
「そうだったなあ………でも、彼岸ざくらの咲くころは、長崎に来ておれよ。いまから、その計画をたてとけばよかろうが」
わたしは、そうは言ったものの、中学へ行けば中学の友達ができるだろうし、紙谷さんたちは女学枚の友達ができてしまって、もう喜び勇んで小学枚の同窓会へ来るかどうか、……ふと、そんなことを考え、やりきれない気もするのでした。
職員室に行ってみると、先生方も幾人か残っておられました。土石先生もおられて、お呼びなさるので、その机に行きますと、封書をとり出して
「これは、君の卒業証明書だよ。中学枚の枚長さんから請求されどったのでね」
土石先生のお机にも懐しさがありました。もう、この小学枚の職員室ともお別れだと思うと、涙ぐみそうになるのです。先生が
「君の中学枚はぼっちゃん学枚と言われとって、服装がやかましく金ボタン一つでも落したままにしていると立たされるほど厳格だそうだよ。勉強の成蹟が悪かったり、枚別に達反Lたりすると、すぐに退枚処分になるのだから、しつかりやれよ。まあ、枚風がまじめで、おとなしい学枚だから君にはむいとるよ」
そう言って、頭をなでて下さったのでした。早く父を亡ったわたしは、先生にそう言われると、もう、むしように、たまらなくなってしまって、たちまち泣き虫の本性をむき出しに、涙が目にあふれてしまうのです。それで顔もあげえず、ただ、頭だけ深かぶかとさげて、職員室をとび出してしまったのです。すると、廊下に藤チイたち五、六人、男女まじって立っていて、その中の女の子が
「ねえ……百花園に行って見ようや。あそこは、思い出の多いところよ」
と言います。百花園は、学枚の裏門を出て、矯を渡ると、あと三十歩ばかりで、その人口だったのです。反対する者はひとりもなく、ぞろぞろと出かけました。
小学枚に入学して、何日目のことだったでしようか。先生がたにご用があって、二部授業の午後の組も午前中に登枚したことがありました。枚庭に並ぶ時、男は左、女は右に、そして隣り合ったもの同志で手をつないだのです。わたしの相手の女の子は、紙谷さんでした。かねて、紙谷さんを女組の中の一番かわいい子だと思いきめていましたので、わたしは犬喜びでした。
さくらはもう若葉になっていました。四月なかば過ぎのうららかな日ざしでしたので、しっかり握り合っている手は汗ばんでいました。正門を出て、学枚のまわりを回り、小島川の川沿い道や、菜の花の畑のあぜ道や、もう今にも穂が出そうに伸びている麦畑にはさまれた道やを、のぼったり、下ったりして、一時ばかりぐるぐる歩きまわり、やっと百花園に着いたのでした。草花がいっぱい咲いている広場を歩きました。花を踏むのが、もったいないような気がしました。たんぼぼやすみれやすずがやだののほかに、にわぜきしようの赤むらさきや、はるりんどうの青むらさきもまじっているのです。わたしの姉は、その時、小学五年生でしたが、草花が犬すきで、一緒に野遊びや山登りに行くと、かならず見つけた草花の名を、わたしにおしえてくれたのです。
それで、わたしは草花の名なら自信があったので、すず
かやを一本、ひっこ抜いて、それをふさふさとゆり動かしながら、紙谷さんに
「この草の名、知っとるかい」
と言いますと、紙谷さんは、まゆをひそめて
「だめよ、先生が、百花園の花は、けっして取ってはいかんと言いなったろがね」
しかるような口調でした。わたしはびっくりして、あわてて花を捨てました。出発前に先生が何かおっしゃったのだけど、わたしは、紙谷さんと手をつなげたのがうれしくて、まるで、何にも聞こえなかったのです。それで、紙谷さんに
「かんにんよね」
とおわびしますと、紙谷さんはまた、まゆをしかめて、
「うちに、おわびしては、おかしか」
と言い、わたしが、そうだったと気づいて、首をちぢめると、こんどは、クスリと笑いました。きれいな笑い顔だなあと、しみじみ思ったのでした。
そんな、六年前のことを懐かしく思い出しながら、その時とほとんど変っていない百花園の広場を歩きまわりました。ただ、あの時は春も最中の四月中旬だったのに、今日は三月下旬、まださくらの花もつぼみなのです。足元の革もわずかに花茎の短かいたんぼぼや庭の片隅のすみれの花が咲いているだけでした。
女生徒のグループは一足先を歩いていました。紙谷さんはみんなよりややおくれていましたので、わたしは急ぎ足に近づき、肩を並べて
「一年生のとき、ここへ来たこと、覚えてるかい」
たずねてみました。すると紙谷さんは、わたしの顔をちらと見て、にっこりし、うなずきました。六年前と、ちっとも変らない笑顔なのです。わたしは、うれしくてたまりませんでした。わたしの後について来ていた亀川が
「何のこったい、おい」
とわたしにたずねます。すると、藤チイが
「秘密、秘密……‥どうやら、おふたりさんだけの、たのーしか思い出らしかぞ」
にやにやです。わたしは、あわてて
「なあに………六年前、ここで紙谷さんに叱られたことがあるのよ」
そう言って、ごまかしました。
午前中は曇っていた空も、午後は要が切れて、愛宕山の上の春がすみの空に半円の夕月が、ぼんやりと出ていました。見わたせる畑の、黄色なのは菜の花、緑濃いいのは麦畑なのです。菜の花畑には夕日がキラキラときらめいていました。
わたしは、十分に感傷的になっていたのです。だから、黙っでおれるはずはありません。
菜の花畑に 入日うすれ
無遠慮な声でうたいはじめますと、すぐに、中村さんが、きれいなソプラノで
見渡す山の端、かすみふかし
すると、紙谷さんも、つつまLやかな声でLたが、中村さんにあわせて
春風そよ吹く 空を見れば
とうとう、みんなの合唱になってしまいました。
夕月かかりて、にほひ あわし、
そこで打ち切りにするのは、みんな、ものたりなく思ったのでLよう。そのまま続けての合唱、
さとわのほかげも、森の色も、
田中の小道を たどる人も
とうとう、最後の、おぼろ月夜≠ワでうたいあげて、それでもまだ、みんなはうたい足りなげの顔つきでした。
草の上に、だれからともなく腰をおろします。春の草は十分に柔らかでした。
百花園と、その上段にある畑との中間の斜面の空地に、犬きな青文字の木があって、木末にいっぱい花をつけていました。白っぼくてわずかに黄色妹を帯びていて、ちようど卒業式のころに満開になるので、この花の多い田上あたりでは卒業花≠ニいっておるそうな………と古の子の一人が言いますと、亀川が、
「そらあ、おもしろか………えーと……」
Lばらく考えていましたが、やがて、
「………青文字を 卒業花と いう子あり−1−どうだ。こらあ俳句ぞ、よう出たろが」
鼻をひこつかせての自慢です。すると中村さんが、
「田中先生に特って行かんね。新聞に出してやんなるよ」
学枚のはげ頭の田中先生は、「田士英」という俳号で全国に名を知られていらっしやるし、長崎新聞の俳句の選者もしておられたのです。その田中先生からは、わたしたちも五年生になると、補欠授業の時間にちよいちよい俳句を作らせられた経験もあって、亀川くらいの俳句なら、すぐに作れる子がいく人もいたのでした。わたしも負けん気で、
「おれも作ったぞ………ロチも見た このさくらの木 つぼみ特つ‥……・どうだい」
すると、また、さっそく中村さんが
「ロチって、なんね」
質問です。みんなも首をかしげています。
「あれは、いつだったかな。田中先生とここに来た時に、このさくらの木の下で、先生からロチの話ば聞いたろが:…占チというのはフランスの小説家で、日本人の妻のお菊さんと、この百花園に来たとげなよ。その時、このさくらの木ば見たじゃろというのさ。明治時代のことーー」
わたしたちが腰をおろしている近くに、犬きなさくらの木があって、すでに十分につぼみをふくらませていたのでした。藤チイが、
「思い出したぞ………そのロチは、ビェル・ロチという名で、そのロチがお菊さんに贈った菊の花のべっこうかんざしば、うちの父が作ったとげなぞ。ときどき、父が自慢して話すとさ」
「父さん……えらかったとばいね」
フランスの文学者というだけで、ロチを犬いに尊敬していたわたしは、そのロチの注文に応じた藤チイの父さんも、偉い人にちがいないと思うのでした。すると、亀川が
「フランスの文学者が犬好きだったべっこうだろう。それでこそ、べっこうの価値があるというものさ。だのに、今日の、あのマインの言い草は、あれやあ、なんだい。二、三年で、立派なべっこう屋になってみせるとは………藤チイ、犬いにフンガイせろよ」
「そうさ………マインのごたる、あんげんテレン・バレンのぐうたら野郎が、べっこう職人になれたら、それこそ、昼間に星が出るじゃろ、さ」
おもしろいことを言う藤チイなのです。それを、興味深かげに聞いていた紙谷さんが
「でも…:…・マインのお母さん、卒業式場で、泣きよんなったとよ」
しんみりと言うのです。それには、わたLたち、気付いていなかったのでLた。中村さんが
「そらあ、そうじゃろうね。わたしたちみんなだれもがマインは卒業できるはずはなかと思っとったもん………それを、先生のお情けで卒業証書がもらえたとのけん、お母さん、どんなにうれしかったことか」
「そのお母さんの気特ち、マインには、わかっとらんごたるね」
亀川がそういって、両腕を組みます。彼も正義の味方なのでした。日ごろ、方引きマインは絶対に許せないという主唱者なのです。
「マインに、お母さんの心がわかっておれば、茶話会のあんな態度はとれんはずだよな。何だい、あれは………高慢で、不まじめで、みえ坊の、ごまかし野郎じゃんか………許せん」
紙谷さんは、もの静かでした。でも、熱情をベールに包んだつつましさで
「マインのお母さんの、あの涙は、きっと、マインにも通じるはずよ。でなかったら、あのお母さん、あんまり、お気の毒だもん」
わたしは、常に、紙谷さんには絶対賛成なのです。それで
「おれたち、マインを見守ってやろうよ。あいつ、えらそうな口をきくけど、寂Lいんだよ」
 そう言い、話を享た、べっこうに引きもどしました。
「そんなら藤ティは、もう学枚には行かずに、すぐに、ペっこうに打ち込むとね」
「おおさ………中学枚なんかに行っとる暇があるもんね。べっこうの腕をみがくとに、一番よか時期が十才から二十才までの間げな。そんのけん、おらあべっこう犬学十年間≠ニ思うとる」
べっこう犬学十年というのは藤チイの口ぐせで、わたしは聞きなれていたけれども、初めて耳にするものには、珍しい言葉だったにちがいなかったのです。
「ちよつと、おおげさだよ」
亀川が亀川らしい口をはさみます。たいがい批判的立場をとるのが癖なのです。藤チイは真剣な顔つきで
「おおげさなもんか。実をいうとね、べっこう細工は、なぞだらけとも言わるっとぞ。まず第一にべっこう″ということばからして、おかしなもんさ。あのすっぼん亀の甲がべっこう≠シ。それだのに、タイマイ亀の甲で作ったものを「本べっこう」と言うのだからなあ」
「すっぽんの甲は、どんげんみがいても、だめかい」
わたしが口をはさみます。
「いまのところ、だめだなあ。どうLても、あのタイマイの甲のような、きれえか色や輝きや、つやは出せそうもないね。……ばってん、タイマイの甲は高熱を加えると、ほかのものに張り付けらるるけんね……張りべっこう″にすることができるとさ」
すっぼんは、どこにでもおるが、タイマイは………」
「日本には、おらんとたい。ずっと両の方の海にしかおらんとさ」
「そんなら、タイマイの甲は、輸入品たいね」
「そんのけん、なおいっそう、べっこう細工は高価なものになるとよ」
すっぼんは肉も甲も血まで貴重な薬品として犬切にされているということを、わたしは聞いていました。そしてまた、江戸時代には、薬品なら輸入できるけれども、ぜいたく品は輸入禁止になっていたのです。
「そうだよ。タイマイ細工はぜいたく品。だからその甲は輸入禁止されたけれども、すっぼんの甲つまりべっ甲≠ヘ貴重な薬として輸入できる。しかも、どちらも亀の甲ではないか。だから江戸時代の商人は利口にたちまわり、タイマイの甲を、これもべっ甲でございますといって輸入しているうちに、いつの間にか、タイマイ甲がべっ甲だということになってしもうた。どうも、そうのようだと思うのだが………」
それまで黙って、わたLと藤ティのべっ甲談義を聞いていた亀川が、そのとき、
「まあ、べっこうのことなら藤チイにまかせとけ。なにしろ、十年間もべっこう犬学に行けば、ペっこう博士じゃもんな。そして、亀のことなら、おれにまかせろ、おれは亀を姓にしとるとぞ」
そう言って、高い鼻を天に向けるのです。得意になった時の、亀川のポーズでした。
「亀は方年のことぶきと言うばってん、ほんとうは、まあ、せいぜい百年ぐらいの生命だろうということだ。それにしても人より長寿さね」
「その程度の知識なら、おれにだって、特ちあわせがあるぞ」
わたしは、得意とまではいかないのだけど、少しばかりなら亀知識がありました。
「亀は、南海の観世音菩薩のお使い者ということになっとると、これは、うちのおばあさんの話なのだが、亀の甲の上には、人の目には見えなくても、いつも観音さまが乗っておらるるとのけん、そまつがあってはならんのだそうな。観音さまは、人の苦しみをのぞき、人に楽しみを与えるためにおいでなさるとのけん、その使者の亀も、やっぱり、そのとおりげなぞ」
「そうだよ、そのとおりだよ」
亀川が犬いに張切ります。お話ずきですから、人の話を横取りするくせがあるのです。
「浦島太郎をはじめとして、亀を助けて幸福になったという話はいっばいある。中国では五子年の昔から、亀を神聖で神秘なものとし、亀の甲のうらないが流行Lていたというし、べっ甲を身につけておると、幸福をまねき禍をさけることができるとは、現在でもよぅ言われていることだよな」
藤チイも黙ってはおれなくなったらしく、
「それだけではないさ。ペっこうには、美しさという魅力がある」
すると、中村さんが、
「それでは結論を申Lます。つまり、べっこうには、神秘的な霊力と、人の心を引きつける美Lさとがあるのです。べっこう万歳」
紙谷さんが、立ちあがりながら
「きれいな結論よね」
いつもの、静けさをくずしません。美Lい態度です。わたしも、最後に何か言わねばならぬと思い
「結論は、出発を意味します。きれいな出発をいたしましよう」
しみじみと、小学枚時代は終ったと思うのでした。
卒業式の日………という今日の一日を、ほんとうに、きれいな一目であったどするためには、あしたからの第一歩が、きれいな一歩≠ナなければならないのです。
こんな時のリーダーのうまさば、中村さんなのです。
とまぁるも ゆぅくぅも かぎりとぅて
きれいなソプラノなのです。だれだって、黙ってはおれません。すぐに声がそろって
かたみに おもぉう ちよろずーの
こ二ころの はしを ひとことに
さきくど ばかり うたうなぁり
やむを得ません。わたLの目に涙があふれ出たにしても………。

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