べっ甲資料館
ベっ甲資料館にも物語がありました。
そこに陳列されているさまざまのべっ甲製品は、それぞれ、いろんな形で「物語」をもっているのです。それは、遠い速い昔の有名な物語であったり、あるいは長崎という町ができてからの近世女人秘話であったり、そしてまた、現代の、わたしたちの身のまわりにいる人たちの、その人にとっては切実だったのに、世の人たちには秘められてしまった物語であったり………なのです。
ところで、長崎で「べっ甲資料館」 といえば、魚の町の江崎べっ甲店の中にあるのです。けれども実は、ほんとうのべっ甲資料館は、長崎という都市、そのものではないでしようか ーーー そうも言えそうなのです。
長崎には犬小さまざまの「べっ甲店」「べっ甲会館」「べっ甲センタ!」「ペっ甲工芸館」「べっ甲製作販売店」などなど、数えあげると五〇に余るものがあるのです。その中には、美術の殿堂ともいえそうな駐車場まで付設した堂どうたる構えもあれば、そうでないのも
あり、古い伝統を誇っているものもあれば、終戦後店びらきしたものもあったりで、それこそ種種様様なのですが、いずれにせよ、その一つ一つが、立派な資料館としての価値をもっているのです。ですから、その中のどれからはじめてもよいのですが、いまは、まず、手近な魚の町の資料館にまいります。
そこにはいって、最初に目につくのは、正倉院御物の実物犬だという琵琶の、鮮やかな色彩の写し絵なのです。それは宝物帳に「螺細紫檀五絃琵琶・亀甲鈿揮撥……‥」と記されている御物なのです。
琵琶といえば、現代はもちろん四絃四柱で、昔も多くはそうでした。これはペルシャ(今のイラン)に起源をもつものだそうです。ところが、この御物は、まことに珍しい五絃五柱なのです。
五絃の琵琶は印度にはじまるといいます。印度で制作され、中央アジアを経てシルクロードの舞踏を征服し、方里の長城を越えたのは、北魏(三人六〜五三田)のころだとされています。北魏はやがて惰に統一され、そLてあの文化さんらんたる唐の盛時になると、琴とともに絃楽器の王座を占めるにいたったのでLた。唐の王翰の涼州詞に
葡萄の美酒 夜光の杯
飲まんと欲すれば、琵琶 馬上に催す
酔うて沙場に臥す…………
というのがあります。葡萄の美酒も夜光の杯も、そして琵琶も、すべて「沙場」を通って西域から中国へ伝えられたものでした。
印度うまれのこの五絃の琵琶は、今ではもう、現存しているのがほとんどなく、たぶん全世界にただ一つ、この御物があるだけだろうといわれているのだそうです。しかも、その形の美麗さ、完全さその高貴さにおいても、なおやはり世界一と称えられるのに充分な「珍宝」 なのでした。
この琵琶の、その美麗さ高貴さに、われらの 「べっ甲」 は、どのように貢献しているかー 琵琶の衷面にはられているあぶら桐材の淡い色彩とのコントラストのためでしようか、捍撥 − つまり撥面には、黒べっ甲がはられています。黒べっ甲といっても、けっして真黒ではなく、べっ甲特有の赤みがかった茶かっ色の斑紋 − まだら模様がついているのです。それがとても表面全体に重厚妹をおぴた艶麗さを感じさせるのです。
撥面のその黒べっ甲を地として、その上に更に螺鈿荘がほどこされています。ラクダの背上で胡人が琵琶を弾じている興奮の姿や、それをとりまいて熱帯樹や、それに飛び交う鳥や、岩石や、その間に花咲く草など………それらが巧みな調和をもって配置されているのです。
撥面以外の表面には、六角形の小花文が十三個、お行儀よく配置されています。その小花文の花芯は琥柏で、それを二童にとり巻いて、内がわに白いほのかな紅色ぼかしの貝がら………螺鈿。その外がわには色あざやかな横様をもつべっ甲……いわば、べっ甲と螺鈿と琥柏とで見事に組立てた綜合花なのでした。
長崎のべっ甲資料館の、このすばらしい写し絵………それは、今や世界に現存するただ一つの五絃琵琶の
………前に立って、この美麗荘厳きわまりないべっ甲細工をほどこした細工師のことを思ったのでした。
たぶん、それは印度の人たちか、あるいはその文化圏内の人びとだったのでしよう。もちろん、べっ甲だけでなく螺鈿 (貝がら) や琥珀の細工もしていたのでした。そう思う埋由は………正倉院御物の中には、もっと、いろんなものに装飾したべっ甲(?瑁) がいくつもあるからです。
わたしは、かつて昭和十五年、紀元二子六百年紀念祝賀行事に日本全土がわき立っていた年の十一月、東京にいて、帝室博物館に特別出品陳列された正倉院御物を拝観に行ったことがありました。
陳列品の中に、丁字形八角の杖がありました。八角の各面に金箔をぬり?瑁を張り、ところブこ」ろに藤がまいてあるのです。長さは四尺五寸ばかり、全体が黒ずんで見えながら華麗なものでした。
碁盤もありまLた。紫檀だからでしようか、黒ずんでいましたが、その盤面の白線にはまっ白な象牙がはめこまれ、側面や床脚には、いろんな模様が、いろんな美しい光りをもつ品で描かれているのです。どれもみな、聖武天皇ご愛用の調度類なのだったそうです。
目録に「?瑁螺鈿槽箜篌」と記されている竪琴もありました。それにも、べっ甲や螺鈿の装飾が美しいのです。「平螺鈿背円鏡」は、その説明に、「………要所にはめられている?瑁の下からは朱の色が輝き、まことに目もさめる美しさ………」と記されていました。
そのほかにも仏具として「?瑁如意」や「?瑁黒柿長方凡」………献物をのせる長方形の台………など、いずれも、べっ甲の色と模様を上手につかって、荘厳さと美しさとを衷しているのです。
正倉院御物の中に、かくも数多くの、べっ甲や貝がらや象牙や琥珀や紫檀やで飾られた調度なり仏具なり楽器などがあることは、全く驚きであり、また、うれしくも尊くも思うのですが、それにしても、この数多くの品品が、いったい、いつ、どこの、だれによって作られ、そしてまたそれが、どんな道を通り、どんな人たちによって日本の奈良の都まで運ばれて来たのでしようか。
?瑁というかめは、印度、ビルマの沿岸から、スマトラ、ジャ力ルタあたりまでの広い南の海に生息しているということですが、子三百年の昔もそうだったのでしよう。ですから印度文化の圏内にあった南海の国々の人たちは、早くから仏教文化の恩恵にあずかり、その繁栄に寄与してもいたにちがいありません。そしてまた一方では、印度から中央アジアに入り、シルクロードを経て唐の部長妥に入った?瑁もあったはずです。
聖武天皇がおん自ら厳修なさった東犬寺の犬仏開眼は、まさに当代の東洋における犬盛儀であったのです。新羅国は王子を特使に任命していますし、渤海国からも犬使が来ました。唐からは鑑真和尚が数多くの伴人や弟子たちをつれて、入唐副使犬伴古麻呂の船に乗り来朝しました。そして南の海の国々の憎たちも犬船を仕立てて、はるばる方里の波頭を渡って来たのでした。それらの人たちが、それぞれの船に満載してもたらしたもの………それが正倉院の御物の幾割かを占めている珍宝類であることは否めません。そして、その中に?瑁や螺鈿のあの美しい輝きと魅力があったことも否めないのです。
聖武天皇の偉犬さを思うのです。この御物が東洋の各国から奈良へ通ずるどのルートを通って来たにもせよ、東洋文化の華を集めたといわれるこの数多くの珍宝を、天皇はおおらかな誇らしさで、ご愛用なさっておられたのでした。何というすばらしさ………。
そしてまた、魅力たっぶりの御物の中の、最も美しいべっ甲をちりばめたこの五絃琵琶の、実物犬だという見事な写真を、誇らしげに掲げている長崎の資料館にも敬意を衷したいのです。
べっ甲資料館の壁に「ペっ甲細工處」と犬書した古びた板看板も掲げてあります。長い年月に黒ずんでしまって、文字もさだかには読みかねるほどなのです。その下のガラス張りの箱の中には、べっ甲細工に必要な、もろもろの、おびただしい道具類が整然と陳列されていました。これを自由に駆使できるようになって、はじめて一人前のべっ甲師といえ
るのだそうです。
それを前にして、ご主人からべっ甲細工の工程を聞きました。
まず第一に、当然のことながら、「図案」です。形と模様と光沢と、そして、そのべっ甲作品がかもし出す雰囲気………気品ともいえます。………それを念頭においての図案なのだそうです。
それを聞いて、わたしは、犬谷べっ甲店の、あのおきんさんの父の春長さんが、浮世絵師としての構図をもとにして、べっ甲の図案を描くのだと言っておられたことを思い出したのでした。
「江戸時代のべっ甲細工といえば、たいがい櫛と笄じゃった。ご維新以後、外国人を顧客にするようになってから、図案などというものがはじまったのよ」
図案がべっ甲作品のよしあしを決定する犬きな要因とさえいわれるようになると、これは、ゆるがせにはできません。そこで、店主の受け特つ重要な役割りとなったのです。
次に、その図案に適切な「生地えらぴ」をすること。なにしろ、千種万様の模様と色彩とをもつべっ甲なのです。その中から、作品に最過の「生地」を選ぶのは、これもまた十分に洗錬された感覚と抜術と判断力とを必要とします。だれにだって出来るというものではありません。これができるようになると、もう一人前の職人とさえいわれるのです。
次は「切りまわし」 です。これもなまやさしいものではありません。あの小さなタイマイの甲の一枚一枚、寸分の「むだ」も出ないように心掛けねばならぬのです。
「きさざ」という作業にとりかかります。これは削るのです。甲の傷をとりさり、凸凹をなくすのですから、「みがき」と同様に熟練と根気を要します。つづいて「地造り」 です。これは万力 − プレス ー と共に重い金具顛を使っての力仕事ですが、強い力がありさえすればよいというのではありません。力の配分が犬切なのです。このあたり、ちよつと見には、何でもないことのようですが、実は、長い年月の間に修得した「かん」が犬切。「押ごて」もそうです。加熱の仕事ですから、いささかの心のゆるみも許されません。
「彫刻」と「みがき」は、いよいよ最後の総仕上げです。ここでこそ、十年以上のたゆむことのない鍛錬の積みかさねが、ほんとうに物をいうのです。いわゆる最後のみがき″というものです。ここでやりそこねると、今までの長い工程が全部、ふいになってしまうのです。ここではじめてべっ甲特有の、あの深い色はだと、さんぜんたる光沢とが発揮されるのです。
このみがきの上手な若者が犬谷べっ甲店にいまLたよ。みんなからマイン・マインと呼ばれていましたが、変な名だったので、よう覚えているのです」
わたしは、思いがけもない名に接して、とび立つ思いでした。休憩室でお茶をのみながら、聞いたり話したり、わたしたちは、しばらくマインの時間″ をもったのでした。
マインは、小学枚卒業後、しばらく家業の魚屋の手伝いをしていました。なにしろ、六年生のころの、あの浜の町での万引が有名だったものだから、どこのべっ甲店にも弟子入りが出来なかったのでした。
そのマインが、犬谷べっ甲店のおきんさんに拾われたのでした。
築町の十八銀行本店前での出来事でした。おきんさんは、あの青色の皮かばんをさげて十八銀行から出て来たところを、門前に待ち構えていたチンピラにおそわれたのでした。チンピラは自転車に乗っていて、猛スピードで近づいて来て、皮かばんをひったくつたのです。アッという間のでき事で、さすがのおきんさんも、その見事なひったくりぶりに、あっけにとられてしまい、声をたてるひまもなかったのです。
ちようどその時、マインは家の用事で青物市場の前を通りかかっていて、そのチンピラの見事なお手並みを拝見したのでした。そんな事には慣れた経験者のマインです。そ知らぬ顔でいて、自転車が自分の側を通り抜けようとしたとき、その後輪をポーンと蹴とばしました。熟練の早投でLた。自転車は急力−ブを描き、市場の壁にド力ンどぶつかり、横転しました。転んでもチンピラは青かばんを握ったままなのです。マインは駆けよって、それをひったくります、おきんさんが駆けつけました。マインは取りかえした青皮かばんをふりかざして、おきんさんの側へかけ寄りました。
マインが犬谷べっ甲店に弟子入りできたのは、そのためだったのです。おきんさんが特別に目をかけてやったこともあってマインは神妙に………というよりは熱心に、べっ甲職人としての修練にはげみました。
もともと利口なのだし、器用でもありましたから、職人修業中の難関とされている「切りまわし」「きさざ」なども、まじめに覚え込み、その他の初歩的なものや、熟練を要するものなども、どうやら習得して、三か年目になると、「みがき」もどうやら一人前になれたらしいのです。
犬正十二年の二月、日華連絡船の長崎丸と上海丸がイギリスの造船所で出来上り、長崎へ回航されて来ました。五三〇〇トン・ニ一ノットという当時では第一流の豪華な客船でした。
十七才になっていたマインは、どんな手ずるで誰にたのみ込んだのか、日本郵船の長崎支店長の推薦があって、その長崎丸のボーイさんになったのです。犬谷べっ甲店にいた間に、聞きかじりのブロークン・イングリッシュながら、口先でLやべるだけの、ちよつとした会話と数名詞ぐらいは、どうやら話せるようになっていたのが、犬いに役立ったのでした。
わたしが中学枚を卒業したばかりの三月のある夜のことです。油屋町の喫茶店つるちゃん″で、コーヒーをのんでいて、マインと出会ったことがありまLた。学枚時代には枚削がやかましくて、映画館やカフェーはもちろんのこと、チャンボン屋や喫茶店にさえ出入りすることは絶対に禁じられていたのでした。だから卒業式をすませたあとの開放感−−1−というよりはむしろ、ちよつとした気抜けの感じさえ加わった安らぎをよろこびながら、一杯のコーヒーで一時間ぐらいは、だれか、話し相手が来そうなものだと、落着いておれたのです。
マインはその時、シャレた縦じまの洋服を着こみ、ノーネクタイでしたが首に絹のマフラーをまき髪をきれいに七三に分けて、まるで、もう兵隊検査を済ませた立派なあんちゃんといった格好でした。わたしはまだ学生風の、筒そでの紺がすりに坊主頭だったのですから、ちよつと気おされ気味だったのです。
「おれ、長崎丸のボーイさんになったとぞ」
意気けんこうといったありさまでした。
「なあに、べっ甲屋を、あきらめたのではなか。とにかく上海に行って見たかとさ。そして、長崎べっ甲が上海ではどんげん評価されどるか、知りたかとさね」
そう言うのでした。
「おおいにやれよ。長崎と上海はお隣り同志じゃもん、……それをつなぐ連絡船に乗っているということは、すばらしいことだ。その将来性に期待する」
などと、生意気なことを言ってやりました。紙谷さんなら、たぶん、そう言ってやるにちがいないと思ったのです。
「サンキュウ・ベリー・マッチ」
マインはそういい、掌を鼻先にあげ、それをヒョイと犬空に向ってはねあげて見せるのです。何のあいさつなのか、何の衷情なのか、それとも何かのおまじないなのか、わたしには理解できなかったのでしたが、マインが上気嫌であることはたしかでした。あいつ、もう完全に、悪い癖はなおったらしいな″そう思って、何となく、ほのぼのとした気特ちになったのでした。
その後、わたしは教員になる学枚へ行ったので、兵隊検査の時、
「背ばかり高くて、体重が足らん。つまり兵営生活などできるものではない、貧弱な体格だ。こんなことでは、教育者としても恥ずかしいぞ」
検査官の犬佐殿にそう言われ、わたしは
「はい、今後、気をつけます」
元気よく言い、それから小さい声で
「ありがとう、ございまLた」
と礼を言って引きさがったのです。実を言うと、検査の数日前から、わたしは、もう生きた気がしなかったのです。もしも合格して、あの四十六道隊のトコムシ兵営に人らねばならぬことになったらそれこそ、夜ごとトコムシの総攻撃に会い、どうなることかと心配で心配で食事ものどを通らないといった状態だったのです。ですから、そのありがとう、ございました=@という言葉は、わたしの真底から、自然にわき出た感謝のことばだったのです。
ところが、マインは、ものの見事に合格して、トコムシ兵営の住人になったのです。そして、トコムシの総攻撃にも見事に耐え抜きました。それはマインの人生に、はかり知れない強靭な生活意欲を与えられたのです。
もう一つ、マインは兵営生活で要領よく″という行動原理を学びとりました。
この原理をべっ甲職人なりべっ甲商人なりに通用すると、いったい、どういうことになるのだろうか。マインは兵営生活の間に、しきりにその事を考えつづけたそうです。そうして最後にたどり着いたのは、べっ甲職人であろうと、商人であろうと、そんな区別なしに、べっ甲細工品で一家をなす、もLくは一財産つくりあげるための、もっとも要領よいやり方は……べっ甲の材料であるタイマイの甲を、できるだけ安く、しかもできるだけ数多く手に入れること……そのためには、タイマイの生息Lている南方の海へ出かけて行って、タイマイを捕獲するか、または土人たちに捕獲させるかということでした。
マインは、このすばらしい思いつきを、除隊と同時に、直ちに実行に移しました。長崎には南方の海へ出かける漁船が毎日のように出港しているのです。そのどれにでもよいから、まず乗り込んで、働きながら、南海の事情を探ることだと思いついたのです。
兵隊あがりの、強健な身体をもっておれば、どの船だって、すぐに採用してくれます。
マインは、南の海の海上でだけ操業する船よりも、南の島の港にも立ち寄るような船を選びました。
利口な頭脳の回転をもつマインは、南方への出漁の回を重ねるうちに、タイマイ知識を十分に仕入れたのでした。
はじめ、運搬船のチャーターを考えたのだそうですが、うっかりすると密輸入船になりかねません。
だから、時間はかかるけれども、やはり漁船の乗り組員としての、手に特てる程度の特ち帰りが、もっとも無難だと思われました。
マインの企画は図に当って、相当のタイマイを貯蔵したそうです。それを上手に使って、おとなしく、要領よく、職人なり商人なりで店を構えておれば、長崎では一かどのべっ甲屋にはなれたはずなのでした。
好事魔多し″と申します。マインは、上海で商店を経堂している友人に誘われ、その店の半分を借りて、べっ甲製作・販売店をはじめたのです。上海にはべっ甲製作所が見あたらなかったし、長崎よりも高値なのでした。すべて要領第一、要領よく立ち回らねば決して巨万の富は出来るものではない……。はじめは、とても調子よくいったのでしたが、翌年、あのいまわしい日貨排斥の暴動が起きたのでした。火の手は物すごい勢でひろがっていき、日本の軍隊が出動するという最悪の状勢になりました。
マインの虎の子のタイマイの甲は、きれいに略奪されてしまったのです。
そんなことで、へこたれるようなマインではありません。日貨排斥の火の手がおさまると、何を思ったのか、マインは、ちようどそのころ上海に来ておられた後藤朝太郎先生のお伴をして、中国の奥地へ、農民や民衆の中へ、出かけて行ったのでした。
後藤朝太郎先生というのは日本犬学の漠字学の教授でした。一年のうち半分は中国の奥地を旅して回り、出土品 − 犬昔の文字を刻した亀甲を収集したり、中国民衆のありのままの生活を、そこの人たちと起居を共にすることによって、調べあげようという先生だったのです。「支那文化の研究」、「支那游記」、「阿片室」、「青龍刀」、「支那長生秘術」、「翰墨談」、「文字の沿革」、「標準字典」などなど、どれも五百ページを越す部厚な本ばかりで、二・三百ページのも加えると五十種ほどの著迷をしておられるのでした。マインが、何のために、どうしてそんな学者のお伴をして中国の奥地へ出かけて行ったのか、だれも知らなかったのです。
ところが、わたしは東京で勉学中、たまたま後藤先生の講義を聞くようになり、マインのことを思い出して、小石川の小日向の居室を訪れました。先生は中国服をゆったりと着て、阿片のキセルみたいなものを、手まさぐりしながら、マインのことを
「あの君は、実におもしろい思想の特ち主だったよ。中国の河南省あたりの畑の中から出土した、おそらく、三千年以上も昔の古代文字を刻んだ亀甲をだよ、極めて神聖、かつ貴重なるべっ甲″と信じていたのだね。かれ氏、その四、五枚を手に入れると、とびあがらんばかりに犬喜びでね………これを立派にみがきあげて、世界一のべっ甲細工を作ってごらんに入れますと、おお張り切りだったのだが………」
そう言って先生は、いつものくせで、舌なめずりをしながら
「上海の、ウースン路の、あれは何という料亭だったかなあ………一晩中のみあかした翌朝、わたしには一言のあいさつもなしに、ブイと、そこを出て行ったきり………それっきり、ぜんぜん、何の音さたもないんだよ」
マインの消息は、その日以来、だれも知らないのでした。犬空へ飛び去ったのか、地下へもぐったのか………もちろん、その後、長崎にも姿を見せたことがないのです。
でも、べっ甲資料館の、このすばらしい道具類を見るたびに、わたしは、何だか、いまもなおマインが、中国のどこかの百姓家の、うす暗い納屋みたいな部屋にいて、いっしようけんめい、三千年昔の亀甲を、せっせとみがき続けているような気がしてならないのです。
べっ甲資料館には、長崎べっこうの「歴史」も陳列されていました。
四百年前、長崎の港が外国船のために開かれると、やがて、犬陸において清国の侵略を避け、長崎へ避難して来る明国人の数は、おびただしいものでした。それは明国が滅亡してしまうまで続くのですが、その人たちは楊子江の流域か、それより南の地方の人たち− − つまり「南朝」 の人たちが多かったので、その中にはタイマイ製作抜術者もいて、タイマイの甲も特ち込まれたのです。
もちろん、そのタイマイ細工の抜術は、すぐに日本の人たちにも伝えられました。そして、美しい櫛や昇が制作されはじめたのでした。その全盛時代は、たぶん元禄時代であったろうとされています。資料館にも「元禄」 と記されたものが、いくつかありました。なにしろ、珍しく、美しいので高価でした。ですから、長崎なら丸山、京なら島原、江戸なら吉原といった歓楽郷で、主として使用されていたものが、やがては、町家のおかみやむすめにも愛好され、やがては、その高貴な光沢と、すばらしい魅力をもつ色彩と、神秘的
な陰陽のかげりの深さのために1−−−−その魔力にも似た吸引力に魅せられたご婦人がたの陶酔のゆえに、とうとう江戸城内の犬奥にまではいりこんでしまった………そのあげくの 果ては、生類あわれみの今≠ニなって、タイマイ制作品使用まかりならぬという「禁令」となったのでした。
けれども、それはやがて、側用人丹後守が西の丸においてべっ甲、けっこう″と膝をたたいた時からべっ甲細工″と名をかえて、また世の人たちに、そのすばらしい魅力をまきちらします。
そして二皮目の全盛期は、文化文政のころの、あの爛熟した江戸文化の中の一つとなるのです。
文化ニ年、江戸域内の支配勘定方であった御家人で狂歌師で漠学者であった蜀山人こと太田南畝が長崎奉行所の支配勘定方(出納係) として在任中、江戸の家族たち(主として女性たち) に書きおくった手紙の中に、
長崎の奉行所の役人といえども、唐船が舶来したべっ甲の上質のものは、なかなか人手しにくいものだ。また、その細工・加工も、長崎の職人たちは高価な料金を要求するので、江戸において江戸在住の職人に制作させた方が安あがりだ″
そんなことを書きおくっています。
舶来のべっ甲が、いかに多くの人々に欲Lがられ、しかも、その細工料が、奉行所の支配勘定方でさえ音をあげるほどの高価なものであったのでした。
明治ご維新の混乱期がおさまると、こんどは、外国人………主としてヨーロッパやアメリ力の人たち………を相手にしたべっ甲細工の全盛期がおとずれます。
長崎には、世界各国の外人たちが、犬浦・東山手・南山手・梅ケ崎などの「外人居留地」にひしめきあっており人………したがって外国船の来航は、まことににぎやかで、からすの鳴かない日はあっても、外国船の来ない日はないと言われたほどだったそうですから、その外国人好みのべっ甲作りに、職人たちがやっきとなったのも当然のなりゆきでした。
その外国人の中でも、年を追って数を増していったのはロシア人でした。ロシアという国は、西欧文化の仲間入りするのも最も遅れましたが、東洋への進出もそうでした。その遅れを取り戻すためにやっきとなり、シベリア鉄道を建設するやら、その終点にウラジオストックという良港を築くやら、したのですけれども、この港も冬は凍結してしまって、ものの役には立ちそうもないのだから、そこで、日本の長崎という良港に目をつけ、ここをロシア極東艦隊の越冬港として借用したのです。冬期だけとはいえ、ロシアの犬艦隊が母港として入港する長崎のにぎやかさは、非常なものでした。そのころ、長崎にはイギリス系の銀行としてホンコン・シャンハイ銀行長崎支店″がありましたが、ロシアはそのほかに、「露清銀行」を長崎につくりました。露はロシア、清は中国です。長時にロシア人と清国人とが最も多かったのだそうです。そのほか、ロシア人を社長どする犬平洋捕鯨会社があり、東清鉄道長崎支店もありました。長崎の繁栄の半分はロシアが受特っていてくれたのてした。
そして明治三十七、八年の日露戦争となるのです。ロシアの極東艦隊は壊滅してしまいました。長崎にとっては、寂しいことでした。べっ甲店の中にはロシアの富家や貴族たちを顧客としていた店もありましたので、長崎のべっ甲業界も寂れていくのです。
おかしな現象ですが、長崎で最も幅をきかせていたロシア人たちが、まるで海の潮が干るように、居なくなっていくにつれて、それを追っかけるように、他の国ぐにの異人さんたちも、つざつざと長崎を離れていってしまったのでした。連鎖反応というのでしようか。しかも、長崎の港に入港していた外国船の数も減っていくのです。
そうした寂しさを救ってくれたのが、明治四十二年から開始された国際観光船の長崎寄港です。長崎べっ甲業界は、「」れでよみがえったのです。
犬谷べっ甲店が、かつての外人居留地だった犬浦の海岸通りに開店したのもこの時でした。そしておきんさんが青皮かばんをさげて、その観光船に乗り込み、ベラベラ英語で観光客を魅了するし、あのピカビ力した本篭町は外国人たちの専用観光通りみたいでしたし、浜の町の二枚の店には着飾った外人たちが出入りしたりしていたのでした。
でも、犬正三年七月、第一次世界犬戦がおこると、八月には日本もドイツに対して宣戦布告をし、長崎の港から軍隊が出征して行って、十一月には、東洋におけるドイツ軍の根拠地、青島を占領したりしたのです。何となく世界戦争に参加といった雰囲気でしたが、
しかしながら、この犬戦は、ヨーロッパが主戦場だったために、日本とアメリカは「参加する」 というよりは、むしろ 「加勢・救援の手をさしのべる」 といった立場だったのでした。
それで、翌犬正四年、アメリ力のサンフランシスコで開催された万国博覧会には、長崎のべっ甲店主・江崎栄造さんが、べっ甲細工の 岩上の鷲″ を出品してグランプリを受賞、長崎のべっ甲界に犬きな喜びと希望と力づけどをもたらされたのです。聞くところによると、それは、審査会の席上で、イタリアの作品とその地位をあらそったのだそうですが、結局、最後には審査員全員の総意で決定されたのだそうです。その鷲は、造形美としても、色彩の配合の妙味も、べっ甲特有の光沢のすばらしさにしても、鳥類の王者にふさわしいその強じんな翼の張りようや、眼光の鋭さや、岩をつかんだ足にこもる力量感にいたるまで、まさに 真にせまって″ いて、今にも飛び立ちそうなのです。
その次の万博は、犬戦のあと、フランスのパリで開催されましたが、その時も江崎さんは鯉″を出品、「」れも最高賞を得られました。いかにも 水中のもの″ といった感じで、静かなのです。静けさの中に、生命感がみちみちています。じつと見ていると、今にもビチッと水しぶきをはねあげ、勇躍しそう………その前の静けさなのです。べっ甲のもつ色彩と艶と光とが鯉″らしい感覚にぴったりでした。
「これは中が空洞なのです。つまり、べっ甲だけを用いて、これだけのものを作ったの
です。父は身もほそるほどの苦心をしていました」
当主の七代目栄一さんが、この名人の創作三味の苦心を、そうお話しでした。
六代目栄造さんは無形文化財″になられました。このすばらしい栄誉が長崎のべっ甲業者たちに与えた刺激は、はかり知れないほどの偉犬なものだったに達いないのです。それ以後、長崎のべっ甲業界は、とみに色めきたち、単なる商品作りにとどまらず、美術工芸への志向を旺盛にしたのでした。
森さんを思い出します。エリート秀才で医科に進学したい希望を、いやおうなしにべっ甲の世界へ引っばり込んだあの積極的なお壊さんに、そうした行動をとらせた直接の原因は、その純粋な愛情であったにしても、なおやはり、このグランプリであり、最高賞であったことも否めません。あの負けん気のお嬢さんは、自分ではとうてい実現不可能な望みを、日本一の最高学府に学ぶ秀才エリートの頭脳と抜術と、そLてその愛情とに託したかったのでした。
森さんだけではありません。わたしの友人の藤チイにべっ甲犬学十か年″ の犬望をもたせたのもこのグランプリだったにちがいないのです。
ここで長崎のべっ甲業界は一つの転期をむかえます。もはや、外人むきの制作品だけでは生き抜けなくなったのです。第一次世界犬戦のあと、世界中は 経済恐慌″という苦悩にさいなまれました。
戦争中の日本の成金″たちに倒産が相つざ、銀行にさえモラトリアム(支払猶予)という金融恐慌が起こったりしたものです。
そんな世界的な〃恐慌″のさ中に長崎のべっ甲界には、一つの新しい力強い希望″が誕生するのです。
昭和二年の春、それまで長崎県知事だった富永鴻さんが、長崎市長選に立候補して当選したのです。
そのころの知事は現在とちがって内務犬臣のごきげん一つで、いつ首をすげかえられるかわからない官僚″だったのですが、市長は選挙ですから当選すれば四年間はそのイスの座り心地を十分に楽しめたのでした。
富永新市長は張り切っていました。そして、長崎の特産品としてべっ甲、さんご細工を、犬いに奨励・激励して、すばらしい美術品にまで向上させようと企図しました。
美甲会″の誕生です。
長崎市内の前途有為の、べっ甲店の青年たちを糾合し、東京から招聘した美術家小川三樹先生に就いて、従来のべっ甲細工を、芸術の香りゆたかな美術品にまで向上させるため、図案やきさぎや彫刻やみがきなど、あらゆる面から指導し、訓練しようというのでした。
藤ティは犬喜びです。長年の願いであったペっ甲大学″の開講なのです。
場所は炉粕町の市立商品陳列所の一室。集まって来た青年たちは、すべて兵隊検査をすませた、はたち過ぎの錚錚たるべっ甲店のおん曹司たち。
菊地藤一郎 (藤ティのこと・東小島町の菊地べっ甲製作所)
ニ枚新一郎 (浜の町・ニ枚べっ甲店)
川口 繁蔵 (船犬工町・川口ベっ甲店)
犬谷 貞雄 (鍛冶屋町・犬谷べっ甲店、おきんさんの長男)
松本 芳明 (西中町・松本べっ甲店)
(もちろん、当時、このほかにも三十指に余るべっ甲店が長崎市内にはあったのですけれども、江崎べっ甲店をはじめとして、ちようど同年輩のおん曹司がいなかったのだから、参加していないのだそうです)
藤チイは、わたしにこう言いました。
「この五人は、とにかく熱心でしたよ。研究会に出席しないものは一人もいなかったよぅに記憶しています。けれども探究に訓練に一番熱心だったのは、わたしでした。なにしろ、ほかの四人は、すべて堂堂たるべっ甲店のおん曹司でしたからね。そのハンディを、わたしはべっ甲に捧げる情熱で補ったのです。頭脳明せきで、技術もすぐれていたのは二枚クンだったけれども、借Lいことに早世しました。現在まで生きていたら、長崎のべっ甲界は、もっともっとすばらしいものになっていたろうと思うのです」
藤ティは、とにかく、千載一遇の好機、逸してなるものかと、一日の欠席もなく、小川先生について回って、それこそ寸暇を借しんで≠ェんばったのでした。この三年間あまりの歳月が、最も楽しく、最も有意義であったと常に懐しく思い出すのだそうです。
富永市長の任期が切れると同時にこの会も解散したのだそうですが会期中藤ティにとっては生涯忘れられない思い出がいくつかあるのです。その中で、美甲会が生んだ美しい落し子≠ニでもいいましようか。
「……それは、わたしが事実上のなかうどになって、犬谷貞雄クンの結婚をまとめあげたことで「……どにかく、べっ甲屋にふさわしい、輝やく恋のさやあて………結婚の華麗だったのですから」
美甲会の集会所でもあり、研究所でもあった商品陳列所……現在の日本銀行長崎支店のところ……には、紫のはかまを胸高につけ、入念に身なりを整えた可愛い娘さんたちが勤務していました。その中の一人が、犬谷グンに恋をしたのです。でも花も恥じらう十六か十七の少女ですから、廊下ですれちがったり、用事があって研究室に行き、顔を合わせたりすると、ただもう顔を赤らめ、もじもじし、ことばでもかけられようものなら、まるで一〇〇〇ボルトの電流にでも触れたかのように、ブルブル震え出してしまうという、ういういしさで、とても現代風の
「おうち、今日の帰りに、喫茶店につれていって………」
などと甘ったれることなど夢にも出来そうになかったのです。
けれども、今も昔もかわりなく、忍ぶれど、色に出にけり……≠ナ、その少女たちの監督役のおばさんが、見るに見かね、五人の若様べっ甲師の中で最も年上の………といっても一つかニつしか達わないのでしたが………藤チイに
「あの娘が可愛そうでね、今にも恋わずらいに寝こんでしまいそう………何とか、仲うどば頼みますよ………」
藤チイはその時二十三の、まだ独身でしたし、仲うどなど出来るはずもないとは思うのでしたが、貞雄クンはあの有名なおきんさんの長男で、すばらしい美男子だし、長崎市の中心部に犬きな店構えで、十人ほどの職人の働く工場もある犬べっ甲南の、あと継ぎ息子らしいおっとりした性格ながら、仕事熱心でもあり、純情な青年でしたから、あっちこっちの女性たちから目をつけられているといううわさも聞いてはいましたが、なにしろ、娘さんの方も、だれにでも好かれる純情可憐な可愛い子ちゃん″でしたから、ニ人を並べたら、たしかに似合いのめおとが出来あがるだろうと思い、つい、その気になって引きうけてしまい、研究会の帰り道、油屋町の喫茶つるちゃんにさそって、その話をすると、貞雄クンは、話を聞いただけで、もう顔を赤くし、
「へえ!……‥あの娘が、ねえ」
と、まんざらでもなさそうでしたが、しばらく紅茶をすすって、考え込んでから
「実は………菊地さんに見てもらいたかもんがあっとさ………これから、うちに来てくれんね」
何やら、深く思いこんだことがありそうな素振りなので、どうせ乗りかかった船、いまさら、おりられるものでもないと、すぐ近くの犬谷べっ甲店へ行きました。
貞雄クンが机の引き出しから取り出したのは、何かの番付け見たいなものでした。
「これば、見てくれんね」
見ると、それは、丸山検番の芸妓衆たちの番付けのようでした。そんなものには、さっばりなじみのなかった藤チイには、何が何だか、わけがわからないでいると、貞雄クンが、ぞき込み、
「………これさ、ね」
ずらりとならんでいる芸名らしいものの一つを指し示します。半玉″とかいてある文字のつざにぼたん″ とある………それを指しているのです。
「これは、舞子の筆頭じゃっか………」
「うん」
うなずいて貞雄グンが懐から取り出したのは、写真でした。
これは………相当なものだぞ、と藤チイは思ったそうです。
はだ身、離さず″写真を特ち歩いているほどなら………これはもう重症の部に属します。
写真を見ると………なるほど、すばらしい美人でした。半玉というのだから、まだはたち前の小娘です。とても愛らしい少女なのです。商品陳列所の娘さんたちは、とても、足もとへもよりつけません −。
「舞子のナンバー・ワンを手に入れるどすると、おかねがかかるぞ」
「そんのけん、菊地さんに頼むとさ。うちのおふくろは、菊地さんなら信用しとるけんね」
「おだてても、だめだよ。おれより、二枚か川口の方が、それには適役のごたるなあ」
貞雄クンは、あわてて首を横にふります。
「あれたちは、おれの遊び友達じゃもん………そんの言うことなんか、おふくろには通じんとさ、……ね、頼む」
犬谷べっ甲店を現在の、ここまで繁昌させたのはおきんさんの腕でした。その女傑にこの半玉にうつつをぬかしている息子のわがままを、どう説明し、どう理屈づけして、承知させたらよいのか、実のところ、藤チイにはたしかな目算などたちそうもないのです。父親の貞次郎さんが健在だったら男は男同志、話もし易いのでしたが、今はもう、おきんさんは未亡人なのです。だからなおさら話しがしにくいのでした。
川口ベっ甲店の主人と、藤チイの父さんとは、坂田べっ甲店で仕事台を並べていたという親しさがありましたので、藤チイは、まず、川口の繁蔵クンの意向を打診してみることにしました。
すると、繁蔵クンは
「そらあ、むつかしかぞ。ぼたんに目ばつけどっとは、水産業者にもおるという話ぞ………鮮魚仲買いは、いま、好景気のけんね」
藤ティは頭をかかえ込んでしまいました。なるほど、考えてみればすぐにわかることなのでした。丸山検番で第一だという美人の半玉を、世の金特ちの若旦那たちが目をつけないはずはないのです。貞雄クンが、やっとはたちを過ぎたばかりの若さで、しかも、いまべっ甲屋としての修業中だというのに、やっきとなって結婚を急いでいるのも、他の者に先をこされては犬変だというあせりかなとも思ってみたり、そして、貞雄クンが言ったことばを、もう一度思い出してみたりもするのでした。
「ぼたんはね、ただ、きれいで、可愛いいというだけではなかとよ。あいつ、とても頭がよくて、愛きようがあってね、商人としても、うちのおふくろのあとが継げると思うよ」
そんなら、あせりだけではありません。貞雄グンは、まさにおぼっちゃんそだちだから商人にはむいていないのだし、ぼたんというその半玉が、ほんとうに貞雄グンの言うとおりなら、たしかにおきんさんの後継者を貞雄グンは見つけ出Lているのだとも言えるのでした。もしかしたら水産業者というのも、ぼたんのその利口さに目をつけているのかも知れないのです。
藤ティは、二枚新一郎クンの意向を聞いてみることにしました。
すると新一郎クンは、
「困ったな。ゆうべ、伊艮林の花村良一クンが来てさ……彼もぼたんにご執心でね。おれに仲だち頼むというのよ。美甲会じゃあないけど、同業者だし、先輩でもあるし、ことわれんしね」
とんでもないことだと、藤チイはまた頭が痛みます。でも新一郎クンの話によると、水産業者というのは、ぼたんをニ号さんにというのだから、これはぼたんが全く問題にしてはいないのだけれども良一クンは、近いうちに店をもつので、ぜひ、ぼたんがほしいといぅ………強敵です。でも、同業者のよしみもあり、何とか、どっちにもきずがつかないような、そんなうまい解決法はなかろうかーーーーJと二人で話し合った結果、これは、おれたちニ人だけよりも、ぼたんも入れて三人で話し合おうではないかということになったのでした。そうすれば文殊の知恵〃以上のものになろうし、それに、何といっても、当事者として鍵を握っているのはぼたん〃なのだから、そのぼたんの意向が最も犬切ではないかーーー一斗というのでした。
二人は、丸山のかたひら町にあるぼたんの家へ行きました。おき屋″というのだと新一郎クンが説明するのです。
都合よく、ぼたんもいて、来意をつげると心よく会ってくれました。
「新一郎さんとは顔なじみばってん、藤一郎さんとは、はじめてよね」
と二人の顔を見くらべているのです。
化粧もしていない素顔のぼたんでしたが、肌の美しい、整った顔立ちの、ほれぼれと見とれるほどの愛くるしさ………そのきれいな目で見つめられると、気もそぞろに、まぶしくて、思わずたじろぐのでした。そのぼたんは、新一郎クンから、事のいきさつを聞くと
「うち、どちらも犬好きよ。犬切なごひいきさまじゃもん」
はっきりした態度でした。ぐじぐじしたところがなくて、気特ちがよいのです。
「………どっちかに決めろと言われても………それは無理よ。貞雄さんは、おとなしくて、美男子で、それでいて真心がおありだし、良一さんは、男らしくて、力強くって、頼りになるお方だし、べっ甲細工の腕前も、兄たりがたく、弟たり難しよね」
なかなか、しつかりしたものの言いようです。藤チイは、その言葉を聞いていて、これほど、はっきりしているのなら、何とかなりそうだぞ、と思ったのでした。それで
「そうだな、べっ甲師の争だから、べっ甲の制作で、兄弟なり雌雄なりを決めてはどうだろう」
すると新一郎グンも
「うン………それは名案だ。そして、審判官をぼたんクンどする」
ぼたんは眉をひそめて
「うち、困るわ………審判官なんか………」
「おい、おい。間達えては困るぞ。おれたちは世話役に過ぎん。この結婚はぼたん……きみのことだぞ」
ぼたんは黙ってしまいます。ほんとうに困っているようすでした。新一郎グンは、じれったさそうに、ややせきこんで
「きみが、商売気を出すから、決まらないのさ。商売気を離れて、ほんとうにこの人となら一生を幸せに過ごせそうだと、まごころこめて、決めることだよ。そうすれば、決まるはずだよ」
ぼたんは目を伏せて、しばらく、じつと動かないでいましたが、やがて、両の目から犬つぶの涙をポロポロとこぼしはじめました。それを見て藤チイは感動したのです。ぼたんは真心だったのだ。いま犬つぶの涙をこぼしているぼたんには、真実、商売気だの、かけ引きだのというものは、みじんも感じられませんでした。純情可憐な少女の、いつわりのない涙………そう思えたのです。藤チイは黙っておれなくなり、
「わかったよ。きみの真底心底、ようわかる。貞雄クンも良一グンも、きみのその真心を知ったら、どんなによろこぶことか。そのこと、ちゃんと伝えておくよ」
新一郎クンも
「おれも、商売気だなどと言ってて悪かった。ごめんよね。おれ、女に泣かれると弱いんだ」
そう言って、頭をかきます。それで、どうやら、ぼたんの気げんも直ったようでした。
その後をのがすような新一郎クンではありません。
「………だからと言うて、一人の女性が二人の男性と結婚することは、許されないだろう。結局、どっちかに決めなければならないのだ。だからさ………べっ甲作品で雌雄を決しようではないか。それがべっ甲師冥加というものだ」
すると、ぼたんは両手を合せて、おがみながら、
「お願い………おうちたち二人で決めてよ。おニ人の決定に………うち、だまって従います」
「そんな、もんじゃあない」
新一郎クンは強固でした。
「展覧会や審査会じゃあないんだよ。ぼたんクンの生涯を決定することなのだから、あくまで、これは、ぼたんクン自身でやらねばならない」
藤チイも口を添えます。
「問題は、そのべっ甲作品が、よう出来とるかどうかではない。ぼたんという女性の気に入ったかどうかということ……それはぼたんクンでないとわからないことだよ。ほかの者では、どうしようもないのさ」
ぼたんは、犬きく、ため息をつくのです。そして
「わかりました。そんなにまで、して頂いて、うち、女冥利に尽きます。もったいないと思います。……おっしゃるとおりに、させていただきます」
きっぱりと、そう言い切ったのでした。藤チイは、なるほど、こいつ、丸山検番一番の舞子だな、と思ったのでした。
貞雄クンと良一クンとは制作を承知しました。
二週間という期限をきめ、制作はぼたんの花″という課題作にすることに決まりました。
世話役の二人は、制作者二人に
「制作期間中は、精進潔斎して、制作に精根をうち込むこと」
を命じ、それからまた、ぼたんにも
「二人がそうなのだから、その期間中は、ぼたんもお座敷などへは出ないで、やはり精進潔斎してもらいたいこと」
を申し出て、承知させたのでした。
いよいよ、その日になりました。
場所は、ぼたんの申し出で、西山の富貴楼なのです。その富貴楼の主人が、ぼたんの立会人になって下さるというのです。富貴楼といえば、かつて明治天皇の九州ご巡幸の際、そのお食事をお作り申し上げたという由緒のある料亭で、もちろん、長崎では一流どころ。その庭のぼたんの花がまた有名でした。
「なるほど、ぼたんは花の富貴なるものなりと昔の中国の学者が言ったそうで………これは、結構な場所を選んだもんだ。それにしてもぼたんと富貴楼のご主人とはいったい、どんなつながりがあるのだろう」
藤チイがそう言うと、新一郎クンが、
「何の縁もゆかりもない者を、犬切な立会人に選びはせんだろうさ。でも、ぼたんも、ここのご主人も何も言わんのだから………ちよつぴり、そのだんまり≠ェ気にはなるよな」
そう言って、笑うのでした。
美甲会を代衷して小川三樹先生にも立会っていただくことにしました。
ぼたんの花にはまだ早い四月はじめのことでした。さくらは、もう盛りを過ぎていて、松森天神の境内には、花屑が散り敷いていまLた。
貞雄クンは作品を本桐の小箱に入れて来ていました。良一グンはビロード張りの豪華なベっ甲ケースを特って来ているのです。
ぼたんは精進潔斎のあとをわずかに見せて、あのふくよかな顔立ちが、いくらかやつれて見えました。とはいっても、今年十人の、まだ花の咲きそめたばかりの姿なのです。ぜんぜん化粧などしてはいないその顔が、かえって素肌の美しさをそのままに、魅力たっぶりてした。
つつましく、二つの箱が並んでいる車の前に正座して、だれにともなく、ていねいな、おじざをしました。藤チイは見ていて、ふっと 天命にささげる御辞儀″………そんな言葉を思い浮かべたのでした。
それから、まずビロード張りケースを手にとっておし頂き、ふたをあけました。しばらく、中を、じいっと見つめていましたが、やがて、それを車の上に置きます。そのぼたんの花は、ケースに似合った豪華なものでした。ただ一輪の、精一っばい、炎立つほどに満開の、その花弁は、形といい、色彩の配合といい、申し分なく、見事なものでした。その花をのせて幾枚かの葉がひろがり、花に安定感をもたせているのです。華麗でありながら、どこか重厚なところもあって、花の王者といわれる貫録がそなわっている………これはすばらしい作だぞと藤チイは思いました。
貞雄グンの桐の小箱には、良一クンの花とはおおよそ対照的な、こじんまりしたぼたん………花ではあっても、まだつぼみがやっと開いたばかりといったところなのです。花弁が花心を守るように取りまき、抱きかかえているといった感じ………そして、その花心には、写真が底深くはめ込まれているのです。ほおえみかけている舞子ぼたんの顔なのでした。
「なるほど、半開の半玉ぼたんか」
新一郎クンがつぶやき、ちらっと藤チイを見ます。そのひとみはこのアイディアは、だれのかしら″といってるようでした。藤チイは、首を横に振ったのでした。
小川三樹先生は、両腕を胸に組み、しずかに、二つの作品を見くらべています。そして、ちよいちよい、ぼたんの顔を見ます。さて、どっちを選ぶかな″ と言いたげでした。
藤チイは貞雄クンの腕を見なおしたのでした。どうして、これはなかなかの傑作だぞ、と思うのです。花弁の中心に、深ぶかとはめこまれた顔写真は、ぜったいに取りはずしが出来ないように、しつかりと、べっ甲で押えこまれています。その半開のぼたんの花の、両わきに可愛いいつぼみが二つ、ちよいと顔をのぞかせ、全体を、黒べっ甲の葉が守るように、かかえこんでいました。
しばらく………二つの見事なぼたんの花に、食い入るように見入っていたぼたんクンが、ていねいなお辞儀をして、立ちあがります。すると、富貴楼主人と小川先生も立ちあがり、三人はつれ立つようにして、部屋を出ました。あとに残った四人は、すばらしい緊張のあとの、ちよつとした休憩の格好で、藤ティはお茶をのみ、新一郎グンほたばこに火をつけましたが、貞雄、良一の両君は腕組をしたまま、身動き一つしないのです。
藤チイは貞雄クンに声をかけようとしましたが、途中で思いとどまりました。貞雄グンのコチコチに固くなっている顔が、とてもことばなど受けつけそうにもなかったからでした。
たいした時間はかかりませんでした。小川先生が先頭に富貴楼主人とぼたんの順で席へもどって来ました。小川先生が
「結果の報告につきましては、ぼたんクンがとても興奮している様子なので、こちらのご主人か、または、わたくしが代って申し上げようと思ったのでしたが………まことに、感心なことに、ぼたんクンは………わたくしの一生の犬事ですから、わたくしが申し上げます………と、まあ、そうおっしゃる。まことに、理の当然、感服しました。どうか、お聞き下さい」
そうあいさつして席につかれます。それまで、ずっと、うつむいたまま、何となく落着きかねる様子のぼたんが、立ちあがり、きっと顔をあげ、それから、わたしたちを見まわして、静かに、ていねいなお辞儀をします。そして
「わたくし、もう、さきほどから、みなさまの、あつい、あついおなさけが、ありがたくて、うれしくて、ずっと、心の中で、うれしなきに泣きつづけて∴わりました」
そう言って、ほんとうに涙を流しているのです。あわてて、ハンカチで目をふき
「………わたくしのような、しあわせものは、この世に、めったにいないと思います。もう一皮、みなさまに、心からのお礼を申しあげます」
そう言って、頭をさげました。もう、泣いていません。
「それから、良一さま………」
ぼたんは呼びかけて、良一クンを、しかと見つめます。良一クンは明らかに、ろうばいしていました。あわてて、あたりを見まわし、それから、ぼたんの顔を見、視線が合うと、びっくりしたように顔を伏せてしまいました。ぼたんは、
「良一さまの作品、ずぶの素人のわたくしにも、すばらしい出来ばえだということが、よっくわかります。小川先生も、そうおっしゃってでした。わたくしのために、こんなすばらしい傑作をお作り下さって、感激でございます。ありがとうございました」
そう言って、一礼すると、こんどは
「貞雄さま」
と呼びかけます。貞雄グンは、顔をあげ、ぼたんを見ましたが、これも、見つづけることには耐え切れないように、また目を伏せてしまいまLた。
「貞雄さまの作品のよしあしは、わたくしには、わかりません。けれども、あれを見ていると、せつないほどの愛情に、わたしは胸をしめつけられる思いでした。わたしは、いったい、どのようにして、この愛情におこたえしたら、よいのかしら………」
ぼたんの声が、かすれます。藤チイは聞いていて、これはどうしてすばらしい女性だと思ったのでした。
「……‥・ですから、」
ぼたんは、二人の競争者を見くらべます。おだやかな、親しみに満ちたまなざしでした。
「うち………良一さまを、すばらしいべっ甲細工の名人として尊敬します。いつまでも、ほんとうの兄として、お目をおかけ下さい。お願いです………それから、貞雄さまには、婁としておつかえいたします。どうぞ、よろしく」
藤チイは、まるで、わがことのように胸がドキドキし、顔がほてり、ほっとした気特ちになり、それから、うれしくてたまらず、思わず、バンザイと、両手をふりあげたい衝動にかられ、それを、ジイッとがまんしているうちに、どうしたことか、涙が目にあふれて来たのでした。
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