一.おきんさん


ベっこうを、きれいだなあと思った最初の経験として、はっきり記憶しているのは、おくんちのお礼まわりに大谷べっこう店へ行った時のことでした。
わたしが住んでいた八坂町のおくんちのだしもの≠ヘ川船でしたから、まだ小学校前の幼児で参加するには、綱引きしかないのでした。母が
「こんど踊り町になるのは七年後のけん、その時はもう十三になっとって中学生じゃもん、とても参加はできんじゃろ」
と言ったのをおぼえています。
わたしとしては、どうせ川船にでるのなら、船に乗って鉦か太鼓をたたきたかったのですけれども、なにしろ、おくんちのだしものは早朝から夜おそくまで、長崎の町まちをねり歩き踊りまわり、しかもそれが三日間も続くのですから、相当にねばり強い体力と精神力とをもっていなければならず、六歳そこそこの幼児にはむりでした。
ところで綱引きというのは、川船のへさきに付けた飾り綱をにぎって、六歳以下の幼児たちが、男女の差別なくいちように、顔には薄化粧をし、衣装はちりめんの薄水色、そのすそに、白い波頭と紅と赤味をおびた黄色ぼかしとの紅葉のちらし模様、それに薄緑のしゅすの帯をしめ、頭にははちまきを左のびんの上にキリリと縦結びにし、足にははでな色ものの足袋−−−そんないでたちで、おくんちの初日と仕舞い日との四所−−諏訪社、お旅所・伊勢の官・八坂社】−めぐりの行列にだけ参加すればよかったのでした。
しかもこのなかには、ニつか三つかのよちよち歩きの幼児もいたりして、かならずひとりひとりに美しく着飾った介添えが付きそいます。そこで口さがない長崎っ子たちは
「川船の綱引きは、あれは付添いのご婦人がたの衣装くらべのごたるもんですたい」
というのです。
ともあれ、おくんちは子供のものでした。付き添いのご婦人がたが、どんなに 着かざろうとも、やはり目立つのは子供たちの、そろいの衣装でした。そして子供たちは、それぞれの身支度なり心の準備なりを整えて、シャギリの笛と太鼓の音に、胸わくわく心もそぞろの三か日を過ごすのです。全くおくんちが長崎っ子を育てるのでした。
おくんちの初日は十月七日ですが、その四日前−−つまり十月三日に 「庭見せ」 が行われます。
庭見せは夜の催ものです。おくんちの準備方端、全く整いましたから、市民の皆さん、どうかご覧下さいと、門も表戸も、家の中のふすま、障子の類まで取り除けて、表の通りからまる見えの座敷には、電燈はもちろん、百めローソグまであかあかとともして、惜し
げもなく巨費を投じて作りあげた衣装やら道具やら、だしものまでも飾り立てます。
その飾りものの中に、あでやかな「花」という字を大書した正方形の紙を添えたものがあります。つまり、それは親類・縁者や友人たちから贈られたお祝儀の品じななのです。ですからおくんちが終ると、その贈り主の家々に 「お礼回り」 をするのでした。おくんち参加の記念になるような文字や横様などを染め抜いた手ぬぐいや、記念写真などが手みやげなのです。
お礼まわりには父と母につれられて行きました。けれども、どこどこへ行ったかは、ほとんどおぼえていません。ただ大浦の大谷べっこう店へ行ったときのことだけは、はっきりと記憶しているのです。おくんちがすんでから最初の日曜日だったようです。
篭町を通りました。ここは特利に美しい、キラキラした感じの町でした。観光客、ことに外国人相手の店が多く、長崎の商店街の中でも、もっともエキゾチックな華やぎをもっていました。
もっとも、このキラキラした美しい通りは、実はもっと手前の、音に名高い思案矯から始まるのです。矯を渡るとにぎやかな石灰町。ここには明治のころ勧工場がありました。
勧工場とはいまのデパートみたいなもので、大きな建物の中に、多くの商人たちが商品を陳列して即売した所−・−現在は宝塚劇場になっているあの辺でした。人出の多い日曜日や、港に大きな観光船が入港した時などは、このあたり、人ごみで容易に通れなかった程だったのです。
石灰町をつきあたると、カステラの本家として有名な福砂屋で、ここから直線道路で百メートルばかり、これも老舗の坂田洋装店までが船大工町。そのお隣りの辻陶器店からがゆるやかな力−ブ家並みの通りになって篭町なのです。
この辻さんのお嬢さんが作曲家としても有名な山田耕作先生の奥さんだったことを知ってる人は、今では、もうそう多くはないでしよう。その陶器店のお隣りが赤レンガ三階建の本田屋。そこのショーウインドウには、見事な花鳥模様のあや絹の衣装が飾ってありました。洋風建築の為政写真館や、糸岐金細工店、せ界中の美しい貝殻を集めて陳列し、貝がら細工やビイドロ細工も売ってあった雲仙堂、双頭のわしの紋章を見事に刺繍した布や額などならべてあった額ぶち屋や絵はがき屋、ガラス戸に「東京屋」と大きな金文字で書いてあったテーラーのお向いには、ハム・ベーコンの浦岡さんも老舗でしたし、富永化粧品店には有名な漢方特効薬の肴枚も出ていましたし、佐藤骨董品店にはヨーロッパの店の感じがありました。高木医院は現在のでっかい十善会総合病院になりましたし、その他、各種の医院あり、薬局あり、洋品店あり、そしてピリヤードやビヤホールや、レストランやバーももちろんありましたし、とにかく、近代的な店も老舗も、おしなべて、ここのは
まばゆいばかりのきらびやかな店構えなのでした。
もちろん、べっこう店もありました。船大工町には老舗の川口べっこう店−−いかにも老舗らしい貫禄があって大きく美しく、篭町の坂田べっこう店、その先の広馬場の阿部べっこう店、どちらも個性的なよさをもっていました。
軒並みに店がすべてそうでじたから、この町を通るのは楽しみの一つでした。そしてまた、ここを歩いていると、かならず紅毛碧眼の異国の人たちや、まだ清国時代の姿を残している中華の人たちやに出会ったものでした。
その町を通りながら、わたしは、いささか得意でした。おくんちの華やかな衣装姿なのです。行きかう人たちが、たいがい、わたしをチラッと見ます。その人たちは
あれは、おくんちのお礼回りをしているのだな
と言いたげの視線です。ジロジロと、通り過ぎてからまで、ふりかえって見る人もいました。その人たちの視線は
珍しいいでたちだな。なにごとだろう。これから踊りでもはじまるのかな″
と言っているのです。きっと、長崎のおくんちを知らない、ずっと遠い田舎の人たちに達いありません。でも、そんなことはどうでもよいのです。わたしは∵いささか得意でした。
その町を通り抜けると広馬場です。入江があって−−港がここまで入りとんで来ていて−小さな舟や団平船がひしめいていました。現在、港公園になっている所です。市場もあって、海産物や野菜類のにおいが道路にまであふれていました。
梅が崎になると、そのころまで、まだ外人居留地だった名残がありました。とっつきのコーンさんの野菜と果物の店は、傾斜した陳列棚に、あざやかな色彩の果物が、春夏秋冬の区別なしに、びっしりと、きれいに並べてあるのが印象的でした。夜など、それが明かるい電灯の光りに美しく輝いていたものです。
そこから先は、道路をはさんで洋風の建造物が並んでおり、窓からマドロスパイプを口にした赤ひげのはげ頭の老人が通る人をジロジロながめていたりしました。
アメリ力のエリザベスという女先生が夜長さんだという活水高等女学枚の下の切り通しを過ぎるとやがて、うちの父が勤めているナガサキ・プレス英字新聞社。その向いには赤レンガの洋館が並んでいるのです。あおぎりの街路樹が、枯れかけた葉をバサバサ鳴らLていました。
そこまで来た時のことです。
突然、まるで遠雷のような音が、あたりの山々にこだましてとどろき渡りました。父が
「今のは大砲………外国船の入港ぞ。見にいこう」
わたしの手をつかむと、引きずるようにして走ります。海岸まで四、五十歩−−海に沿った道に出た、ちようどそのとき、また一発−−そう思って聞くと、たしかに大砲なのです。見ると、そこから見える沖合に、大小ニ隻の船がいて、その大きい方の舷側に、白煙がもうもうとたっていました。
「どうやらフランスの軍艦のごたる」
父が教えました。
港には大小さまざま色とりどりの船が、いくつもブイに繋留されており、その間を、サンバンやらランチやらモーターボートやらが白波をけたてて行きかっているのです。港は、にぎやかだなあと思いました。
海岸に沿った道をまっすぐに、フリーメーソンの紋章を刻んだ石門の前を通り過ざ、やがて大浦川につき当って左折、川に沿った道は、こここが居留地だったころのままで、家並みは木造ながら洋風の建築−−でも、住んでいる人たちは、ほとんど日本人なのです。だから、どうかして、そこの露地あたりから金髪の女の子がとび出して来たりすると、おやつ……と目を見はったものです。
松が枚矯から石矯の方へ数十歩行ったところで、極彩色の大きな亀の看板が目につきました。そこが大谷べっこう店でした。間口も奥行きもたいしたものではなかったけれども、清潔な、きれいな店でした。陳列してあるべっこうを、どれも美しいなあと思いました。
店にいた若い女の人が、
「あら……くんチイ、よう来たねえ」
わたしの両うでを取って、うちふります。色が白くって目がパッチリしていて鼻が高くて、笑顔になると金歯がちらちらと見えます。おきんさんでした。母のいとこで、いつもわたしをくんチイとよぶのです。
「おくんち衣装が、よう似合うとる」
大きい目を細くして、まぶしそうにわたしを見るのです。わたしはまた、ちよつぴり得意になりました。
座敷へあがって、お祝儀のお礼を言ったりしていると、ニ階から白髪の老人がおりて来ました。顔だちがどこかおきんさんに似ていると思いました。大きな目と高い鼻とがそう思わせたのかもしれません。わたしの頭をなでながら
「くんチイの、くんち姿ば描いてやろうか………どれ、立ってみなされ」
わたしを立たせておいて、絵筆をとり出し、写生をはじめるのです。
あとで聞いたのでしたが、その人はやはりおきんさんの父親で春長という名の浮せ絵師なのだそうです。
どうりで父と話をしているのを聞いていると、絵の話ばかりでした。近ごろ外国人がよく絵を買っていくとか、でも若いころのように一日に何十枚も書きなぐることは出来なくなったとか、べっこう細エになりそうな絵をかくのはむつかしいとか、そんな話ばかりしているのでした。
店に客が来たらしく、急ににぎやかになり、おきんさんが出て行きました。のぞいて見ると、客は外人四人でした。おきんさんがベラベラと英語で話しています。−−わたしには、わからないことばなので、たぶん英語だろうと思ったのです。外人もにこにこしながらガラス戸の中のべっこうを相さして、まるで、鳥がさえずるようなこどばでした。何をいっているのか、さっぱりわからないのだけれども、みんなが、とても楽しげに、にこにこ顔なので、わたしは、つい、つりこまれ、その外人のそばへ行ってみまLた。
すると、外人たちは、わたしのいでたちが普通の子供とは達っているのに気付いたらし
く、べっこうはそっちのけにLて、わたしを取りかこんでLまいまLた。そして、金髪の婦人が、何やらしやべりながら、わたしの着物の袖を引っ張るのです。おきんさんが
「これ、絹かと尋ねてるのよ」
わたしに答えられるはずはありません。座敷の方を覗いて母に応媛をたのみます。母があわてて出て来て
「本絹………ちりめんよ」
と言います。すると、おきんさんが英語で伝えるのより先に、その金髪さんが
「おお……チリメン、チリメン」
わたしの屑をなでるのです。やわらかな手ざわりを楽しんでいるようでした。
黒い口ひげの男の人が、こんどは、わたしの帯−−−それは左の脇の下で大きく結び、垂れさがっているところには、五色の糸で花模様が刺繍してあるのです−−−それをつまみあげて、何やら言います。すると母が
「それ帯………あやぎぬ」
おきんさんが、英語で教えると、もう一人の、口ひげのない男の人が、こんどは、わたしのはちまきの手ぬぐいの縦結びの先をつまんで何やら尋ね、おきんさんがそれに応じます。
すると金髪のご婦人が、わたしの頬をちよいどつっつき、にっこり、何やら一人言−−
おきんさんがわたしに、
「おおちが、可愛らしかと言いよんなっとよ」
と言います。異人さんからほめられたのは、はじめてです。でも、得意な気特ちにはなれませんでした。むしろ、何となく恐いみたいーーあちこち引っばられたり、つっつかれたりしたのでは、まるで見せ物にされているようで、わたしは、いささかいやになっていたのです。
それで、座敷の父のところへ逃げていこうとしますと、おきんさんが、わたしの手をつかみ、
「ちよつと待ってよ」
と引き止め、それから母に
「この異人さんたち、くんちのはちまきがほしかと言いよんなっとよ………あのう、さっき、うちがもろうた「はちまき」ば、この人たちにやっぺよかでしよか」
すると母が
「どうぞ………うちには、まだいくつか残っとりますけん、おやんなさいまっせ」
「おおきに………そんなら、くんちのとも、もろうてよかろか」
母がうなずきます。まず、わたしのはちまきが頭からすっぱ抜かれて、縦結びのまま、口ひげのない異人さんの手にわたり、つざに、おきんさんが座敷から特ち出して来た紙包みのはちまきが金髪さんに手わたされました。すると、こんどは黒い口ひげの異人さんが、わたしの帯をつまみあげて、口早に、何やら言い出しました。わたしは、ぐずぐずしていて、帯や着物まで所望されたのでは、たまらないと思い、座敷へ逃げてしまいました。そのあとで、異人さんたちはお店のべっこうを、それぞれずいぶん買っていったそうです。
そのためだったでしようか、わたしたちの帰りしなに、おきんさんが、きれいなビロード張りの小箱をわたしに手渡しながら
「これは、くんチイが大人になってから善ぶもので、今はねこに小判じゃろうばってん、今日の記念にやるけんね」
といい、母には
「お店にあるものでお好きなものをあげるとよかけど、一度、店に出した品ものには、もう税金がついとりますけん、……これは」
とわたしの手の中の小箱をさして
「いま作ったばかりで、まだ陳列だなには出しとらん新品で、極上ものよ」
と言って、にっこりしました。母がわたしの手からビロード小箱を取って、開けてみて
「まあ、カウス・ボタン……こんな高価なものを……」
と、父に渡します。父も
「本べっこうは、やっぱり、よかのう」
といい、たもとにボンとほうり込んでしまいました。
わたしは、つまらないと思いました。べっこうのあのあめのような色と、かがやくつやとをきれいだとは思いましたけれども、どうせもらうのなら、こんなものよりビー玉か軍艦カ−ドの新しいピ力ピ力した新品の方がどんなにうれしいことかと思うのです−−。わたしが、よほどつまらない顔をしていたと見えて、おきんさんが
「……そうよね、べっこうの美しさがわかると、もうおとなよ。わからんうちが花よね」
と言うのです。べっこうの美しさが、わからないのが、どうして花なのか、わたしにはわからなかったけれども、おきんさんのそのことばは、ずっとあとまで頭のどこかに残っていて、ちよいちよい思い出したものです。
わたしが小学彼の三年生になったときおきんさんのべっこう店はあの美しい色と光とにおいの本篭町に引っこして来ました。間口も奥行きも大浦の店の三倍はありました。そして軒先には極彩色の大海亀の肴枚が高だかと目立っていました。赤レンガ三階建の本田屋と、ガラスに金文字の東京屋テーラーとの中間でした。本篭町道りは、このべっこう店ができたので一段と美しいピ力ピ力を増したように思われました。
そのころのある日、おきんさんが骨っぽい皮カバンを提げてうちに来たことがありました。力パンの中にはいっぱいペっこう細エが入っていました。うちの大きい姉のお嫁入りの日が近づいていたのでした。その姉がカパンの中をのぞき込んでいた笑顔を、わたしは長く記憶していたものです。
その夜、父と母と姉たちとが話し合っているのを、わたしは聞いていました。
「あのべっこう店が、ああ大きうなったとは、おきんさんが商売上手じゃったけんよ」
「なんしろ、外国船が入港すると、その船へ、大きな力パンを提げて乗り込んでいき、あのベラベラ英語でまくしたてたあげく、たいがい、カバンはからにして帰って来なっとげなよ」
「それもあるばってん、貞さんの腕もたいしたもののごたるよ。あそこんとは、花に特色があって構図が達うとるということよ」
「そらあ、あの春長じいさんの下絵がすぐれとっとさ」
「それにまた、貞さんの弟の伝さんが、外国航路の船の機関長だもんだから、ボルネオあたりに行くと、タイマイの甲ば買うて来なっとげな。べっ甲をほかの店より多くもっているということは、何といっても有利よね」
事実、その話のとおりだったのだそうです。おきんさんの夫の貞さんは、まるでべっこう職人として生れて来たような人で、その腕はたいしたもの、本篭町に来てからは、店の奥に広い細工部屋を作り、そこには若い職人がいつも三・四人ニ列に並んで、せっせとべっこうを磨いたり、張ったり、刻んだりしていました。その細エのコンポジションを描いた浮世絵の春長さんの豪華けんらんたる錦絵がいく枚かわたしの家にもありましたが、花鳥の絵も見事なものでした。おきんさんのベラベラ英語は、なにしろ、県立高女よりも古い歴史をもつ活水女学枚で、アメリカ育ちの先生たちから鍛えられた英語でしたし、それに微笑すると金歯がチラチラする態度にとても魅力があって、決して客をそらさなかったものですから、店はいつも活気にあふれていたのです。
おきんさんの、人並みすぐれたすばらしい点がもう一つありました。それは、その花車で小柄なからだの内に秘められていた底知れぬ活力です。
病気知らずで、しかも弁舌さわやか、一日中でも一晩中でも、しやべりとおして疲れ知らず、そのうえ、ほとんど年子のように十四人もの子どもをつざつざに生みながら、四十歳を過ぎても、その若さと姿の美しさとに衰えは見られませんでした。
うちの母は
「おきんさんのからだは、いったい、どんげんなっとっどじゃろか。妊娠していても、ちっとも目立たんで相変らず仕事ば続けよるし、子供がうまれても、ニ週間とはたたんうちに、もうしゃかしゃかと商売に出かけよる」
すると大きい姉が
「天女か、魔女か………という科白があてはまるとよね」
と相づちをうっていました。うちの近所にいた庄の市という座頭さんが、いつだったか、
「べっこう屋のおきんさんな、べっこうば煎じて飲みよらすとげなぞ。ほうら、つるは千年、かめは方年というじゃろが−−−そんのけんさ」
と言っていたことがありました。漠方医では、すっぽんがめの甲を「べっこう」といい、薬効ありとされているそうです。
明治のご維新ができあがって、その三年から四年へかけ、長崎では「浦上四番崩れ」といわれているカトリック信者に対する弾圧が強行されました。浦上村を中心として、県下の信者たちが島流しの刑にあった事件でした。西南諸島や、瀬戸内海の孤鳥や、山陰地方の山の中の寂しい部落やに、別れ別れに流されて行ったのでした。
わたしの祖母と、おきんさんの母とは、その浦上村の流され人たちとは近い親類だったのだそうですけれども、子供のころから長崎の油屋町に出て来て商家となっていたために、町の人たちも、この姉妹がマリアとかカタリナとかいう洗礼名をもっていることなど全く知らなかったのでした。
ところが、浦上の人たちがつざつざに逮捕され、その親類縁者たちの詮索が厳しくなり、結局は、油屋町の姉妹もキリシタンだということが役人に知れてしまったのでした。そこで逮捕の役人が来るそうだといううわさでした。
幸か不幸か、この姉妹は油屋町小町と評判された美人だったのです。そして、その近くに、わたしの祖父とおきんさんの父の浮世絵師とは隣り合って住んでいたのでした。仲よしだったニ人の若者はひそかに話L合い、そのころ町で流行していた嫁ぬすみ″を決行、そして町の乙名まで立合わせ、その夜のうちに結婚式をあげてしまったのでした。
翌朝、役人が逮捕に来てみると、ニ組の新夫婦が、それぞれ仏教徒−1犬光寺と皓台寺との檀家であるというお寺さんの証明書に、町乙名の添え書きまでして役人の鼻先に突きつけました。
役人たちにしたところで、何の罪もない人たちを、ただ信仰のゆえに島流しなどにするのは、決して、よい気待ちではなく、いやいやながらお上の命令で行動していただけのことですから、にわか仕立て、一夜づくりの新夫婦だということは知っていても、仏寺の証明書がありさえすればそれで結構
「まあ、夫婦仲よう暮しなされ」
と言い残して引きあげてしまったのです。
そんなわけで、うちの母や、おきんさんがこの世に存在するということになったのでした。
そのわたしの祖父は、わたしが生まれる前に死にましたが、祖母は−−つまりおきんさんの母さんの姉なのですが、わたしが五歳の年まで健在でした。わたしの記憶の中にあるのは、きれいな白髪のおばあさんでしたが、五つのわたしを正座させておいて、
「てんち・てんのう。あきの田の、かりほのいおの、とまをあらみ………」
と百人一首の作者とうたとを暗誦させたものです。もちろん、文字など一つも知らない年ごろですから、まったくの口うつしなのでした。
てんち・てんのうが終ると、次は「じとう・てんのう。はるすぎて………」 になります。とにかく祖母は百人一首全部を、その作者までちゃんと暗記していたのでした。
わたしの姉たちも、この祖母に鍛えられたのでしようか、どこのかるた会に行っても、たいがい、上手の部に仲間入りしていましたし、少女時代には腰折れであっても、どうにか和歌・短歌といわれるものを作ったりしてもいたのでした。
祖母はまた昔話しの宝庫みたいでした。日本の話だけでなく、中国のや、グリムや、イソップやアラビアン・ナイトの中の話など、時にはうたまでちゃんとつけて、ぼつり、ぼつりと話してくれたものでした。
冬の夜など、長火鉢をかこんでわたしたちは座りました。祖母の冬の夜話もすんで、九時近くなると、灰の中の埋ずみ火が小さくなっています。祖母は火箸で灰をかきならし、炭火が出てくると、それを火箸ではさんで
「これは、だれにやろうかな」
と言います。みんなは、いっせいに
「うちに」「うちに」
と言って、手をさし出します。すると祖母は
「いまのは、くにさんが早かった」
わたしの前に火種はおかれるのです。その上に両手をかざします。豆つぶほどの、小さいその火種が、どんなに暖かかったことか−I。つざつざに、灰の中の小さな火種が、みんなの前にくぼられ、かざした両手の下で、火種は、最後の光と暖かさとを、精いっぱい、わたしたちに投げ与え、そして、バッと消えるのでした。
「さあ、ねよう」
わたしたちは、両の掌に、まだ残っている暖かさを、たいせつに握りしめながら、蒲団にはいるのでした。こうして祖母は、わたしや姉たちに「文学」の種をまき、その芽を犬切に育ててくれたのです。祖母が歯のない口ではなしてくれた話しと、くばってくれた火種の暖かさとを、わたしは今も忘れません。
ところで、その祖母の嫁さんは、おきんさんに、どんな種をまき、どんな暖かさを残したのでしよう。
わたしの記憶の中にあるおきんさんの背後には、あの浮世絵師の春長おじいさんだけです。ですから、たぶん、わたしが物心ついたころには、もう、おきんさんの母さんはこの世におられなかったのでしよう。ただ、わたしの母が
「おきんさんは、あのきりようよしのけん、あっちこっちから、引く手あまたの結婚申し込みがあったけど、けっきよく、母親のすすめで、べっこう屋になったとよ」
と言うのでした。だとすれば、そのころ、まだ珍しかったアメリ力糸の女学枚まで卒業した新しい女で、しかも美人の娘を、学歴などないべっこう職人の妻に選んだ母親は、その姉とは対照的な、現実的で実利主義だったろうかと思うのです。
そして、おきんさんは、その母の期待に見事に応えたのでした。そのべっこう店を、とにもかくにも、長崎では十指のうちに数えられるところまで仕上げたのですからーー。つまるところ、おきんさんの母さんは、やはり「賢明な母」であったと申せましよう。

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