二.いき人形
浜の町にもべっこう店がありました。
けれども転変のはげしい商店街のことですから「盛者必衷」 のことわりが現実となってはいましたが、そんな世間的常識を超脱したいわゆる老舗も、昔からありました。ふたえだべっこう店≠ェその一つなのです。
犬正時代の浜の町は、長崎のメーン・ストリートには達いなかったけれども、ニ階にまで売場をもつ店は、ほとんどなかったようでした。すべてが低い家並み、電燈もうす暗く、人通りにしたところで、現今の何分の一ぐらいだったでしようか−−。
なにしろ今の浜屋デパートのところは、長崎警察署だったのです。木造ニ階建、外壁はくすんだ青味がかった灰色、夜は赤い軒燈がポッンと灯り、ガラス戸越しにほのかな灯火がともっている部屋がいくつありましたかしら………とにかく暗く寂しく、その建物と道路との間には数メートルの玉砂利の庭があって、そこには、やせてヒョロリとした小さな松の木が何本か植えてありました。
その向いがわはメリヤスの山形屋−−店へはいると真正面の中央にガラス張りの犬きな箱があってきれいな人丈ほどの犬きさの、とても精巧な、白地に黒斑の毛色のまねきねこが飾ってありました。
そのねこは可愛いかったのに、どんばら膏薬の竹屋の、あの見事な布袋さんのどんばらと、寿老人のテ力テ力光った犬きくて長い長い頭と、上目づかいにギョロリと光る目と、白いひげとが、子供心にはどうしてああも恐ろしかったのか、いま考えてみるとおかしいくらいです。
山形屋と並んで高矯呉服店。それに書籍の好文堂。ここで、毎月の終りに翌月の日本少年という雑誌を買うのが楽しみになったのは、たしか小学五年生の春からでした。石丸文具店で買物をするようになったのは中学生になってからでした。
藤瀬呉服店が改築されて、その二階にも反物が陳列してあり、だれでもそこで買物が出来るのだと珍しがられたのは、犬正の何年ごろだったでしようか、とにかくニ階にまで店があるということはうわさの種になることなのでした。
そのちよつと先がエゴー一幅ニ間ほどの下水道−Iをはさんでこ間幅ほどの道路………やなざの木が植えてある処もありました。そのやなぎの木の下に夜店だの屋台店だのが並んだりしたものです。
その四つ角に、手前が井上洋品店。酒屋もあって、かぶとビールやキリンビールの絵看板が出ていたものです。先の角が、向いあって、右が岡忠、左が岡政、兄弟の呉服店でした。どちらも広びろとした店構でしたが、昭和になって出来た現在の岡政デパートは、岡政の方を広めたのです。
その岡忠のさきに「ふたえだべっこう店」はありました。明治時代のままの、白みがかった犬理石造りの、がっちりした構えでした。犬きなガラス張りの明かるくてすっきりしたショー・ウインドウが人目を引きました。明治の建物ですから古びてはいますが、その古さと、犬理石造りだというこy二とで、この店は現在もなお一段と貫禄がましているようです。
犬正時代、そこのショー・ウインドウに、たぶんろう細工だったろうと思われる見事な美人の胸像が飾ってありました。顔の色つやもすばらしく、まるで血のかよった人肌のようでしたし、黒目がちの涼しい目もと、高い鼻、そしてほのかに笑みをたたえたくちびる−。髪は束髪で、こはく色のべっこう細工の花が、その髪によく似合い、首にはたしか真珠の首飾りをつけていたようでした。
子供心にも、わたしは、それを美しいと思いました。だから、そこを通る時には、たいがいショー・ウインドウに近づき、ガラスにおでこをすりつけながらーーーたぶん、こんな美しい顔の女の人は、日本広Lといえども、どこにも居ないだろうなあ………と思ったものです。
いつだったか、たそがれどきにちようどそこを通りかかったことがありました。ショー・ウインドウには、まだ灯火はともっていませんでした。けれども太陽が沈んだばかの稲佐山の上空にあるあかあかとした残照にてり映えてウインドウの中のその美人のあたりだけにはほのかな明かるさが残っていたのです。
ふと、わたしは足をとめました。その美人人形の顔が、おきんさんにそっくりだと思えたからです。
わたしは急ぎ足に近づいて、もう一度見直しました。けれども、今度は、がっかりでした。目もとと高い鼻とには似たところがあるのだけれども、全体としてはショー・ウインドウの中の方がずっと若々しくて、あでやかなのです。でも、わたしはどこか似たところのあるものが、うちの親類の中にもいるのだということだけで満足だと思ったのでした。
ところが、それからまもなく、わたしはそのショー・ウインドウの人形に魅せられて、人生行路に犬転換をした若者に出会ったのでした。
そのころ、わたしたちは八坂町から愛宕町に移転していました。百姓の伯父が納屋を改造した瓶未な住居でした。それでも四部屋あって、家賃は月十銭。前の年にわたしたちの父が死にましたので、伯父の、わたしたちに対する「思いやり」だったのです。
その家の側に、かきの木やくわの木の茂った空地があり、その空地を隔ててわたしの家と向いあいに森さんの家でした。
森さんは長崎中学の五年生−−犬正時代のことですから、中学五年生といえば十七、八歳・現在の高枚ニ・三年に当ります。森さんの父さんは、そとめ(東シナ海に面した地方)の半農半漁の村の村長さんでした。その村から長崎市までは五十キロあまりの距離があり、汽車の便もなければ、阜の通れる道路もなく、船便は一日にニ往複だけあるのだけれども、片道三時間もかかり、しかも船が小さくて、ちよつとでも雨風が強かったりすると、すぐに欠航するといったお粗末なものーー。ですから中学板に入学すると、寄宿舎に入るか下宿するかしなければならなかったのでした。
森さんは村の小学校で「神童」といわれたほどの秀才でしたから、長崎中学の入学試験に優秀な成績で合格したのでした。それで、子煩悩の母さんが下宿などさせてはおけないといい、付き添って来て長崎に家を構えていたのです。
中学枚での成績も森さんは常にトップクラスでした。ですから来春は長崎医学専門学板への入学も確実だと、近所ではもっぱらの評判でした。
わたしも来春は中学へ道学するつもりだったのですが、なにしろ、わたしたちの小島小学枚というのは、長崎市立ではあっても、まわりがほとんど畑で、生徒も農家や日傭取りの子供が多く、一年から六年享でニ学級ずつ合計十ニ学級あるのに、先生は枚長先生も数に入れて十ニ名しかいなかったしその中の二人は代用教員という状態だったものだから、わたしたち六年生男女ニつの組の担任は教頭の立石先生お一人。男組が読方の時間には女組は裁縫、女組が算術の時には男組は代用教員の先生で体操といったやり方だったのです。ですから先生が欠勤でもされようものなら、自習か遊びか、たまには郷土史家の福田枚長先生に引率されて、風頭山の麓を取りまく墓地めぐり−−1そこには江戸時代から明治初期へかけての郷土出身先覚者たちの広びろとした墓が並んでいるので、一クラス全員、たまには男女組合同でそこに集まり、一時間余りの長時間にわたる枚長先生のおもしろい講話を拝聴したものでした。
たしかにそれは、わたしたちの愛郷心を豊かにするという効果はありましたでしよう。けれども、上級学枚受験ということには、おおよそ縁遠い毎日でした。従って、
「中学枚へ行きたいものは、それぞれ、みっちり受験勉強ばしとけぞ」
それが担任の先生の口ぐせでした。
わたしは読方、綴方、それに理科と地理、歴史は得意でしたが、算術が不得手でしたので、時たま森さんに教えてもらいに行きました。
「計算なら小数や分数や度量衡などどうにも出来るとばってん、応用問題がだめ−−−わたしと同じよ」
姉は森さんにそう言うのです。姉と森さんとは、同じ年ごろだし、近所でもあるのだから道で会えば声をかけ合うし、正月には、かるた取りに誘い合ったりする程度のつきあいでした。
「帰一算、知っとるかい」
森さんが、わたしに質問します。もちろん、そんなことばは初めて聞いたものでしたから、わたしは首を横にふりました。
「帰一算は応用問題の基礎さ。これを知らんじゃあ、応用問題はわかりゃあせん」
でも森さんは、べつにいやな顔もせず、
「いいか、よう考えろよ。八人で五日かかる仕事ば、ニ日で仕上げるには何人いるかい」
もちろん、わたしには、どう計算したらよいのか、ぜんぜんわかりませんでした。黙っていると、
「そんなら、その仕事ば一人でやると何日かかるかい」
もちろんわたしは、そんなこと分かるもんか−−という目つきでした。森さんは、チェッと舌うちをして
「なるほど、これじゃあ応用問題はゼロだな」
とは言ったものの、ちよつと考えて、
「いいかい、八人で五日かかる仕事ば、一人でやると、五日よりも多い日数がいるか、それとも少くてよいか、どっちだい」
「そらあ、多くなる」
「そうだろう、多くなるよな………どれだけ多くなるか」
「………」
わたしには答えられませんでした。
「よかか………八人は、一人の、なん倍だ」
「そらあ八倍」
「そうだろう………八倍だろ1−だから八人で、五日なら
「あ、そうか、八倍だ………五・八の四十日だ」
人では、五日の…‥….」
森さんはにこやかで
「それと同じことで、八人で五日なら、一日で仕上げるには………」
「………そうか、八人の五倍で四十人だ」
「それでよい。帰一算とは、すべて、一つの単位に直してみるとどうなるかと考えれば、解ける問題をいうのさ………一目で仕上げるのに四十人いる仕事なら、ニ日で仕上げるによ………」
「そうか、半分の人数でよいわけだ」
森さんの教え方は、そんなふうでしたから、わかりやすく、引さ続いて旅人算だの植木算だの、鶴亀算だのをおそわっているうちに、どうやら応用問題の考え方がのみこめてきたのです。森さんは頭がよいばかりでなく、教え方もうまい人だなあと思いました。
その森さんが、ふたえだの店のあのショー・ウインドウの人形の魅力に魅せられていたのでした。
中学枚は鳴滝ですから、愛宕町から通学するには寺町を通るのが一番近道でした。ですから朝の登枚には、そうするのですが、帰路は中島川の阿弥陀矯を渡って、それから中島川沿いの道を南へ下ります。この道はとても変化に富んでいて、森さんは犬好きだったのだそうです。川の清流に沿って歩くかと思うと、両側がお店−1−といっても、そのころは古道具屋が多く、そのほか金物屋とか、ガラス屋とか、植木屋、釣具店、小店など。たまにはこざっぱりした料亭があったり舞踊のお師匠さんがいたり、理髪店があったりする、雑居地区みたいなものでしたが、その雑然たるたたずまいが、森さんには気に入っていたらしいのです。
「あの通りは、人間社会の縮図みたいなものさ。興味シンシン、見ていて飽くことがなし」
そんなことを言っていました。
その川沿いの狭い道は、榎津町の賑橋まで来ると、眼界が明かるく広びろと開けて、ニ、三年前に敷設されたばかりの新しいチンチン電車の線路に出会います。線路を踏みながら、川に沿い、万矯のそばを通って、やがて鉄矯−−そのころは日本で最初に架けられた鉄製の矯そのままでしたが、終戦後現在の鉄筋コンクリートになりました−−いよいよ浜の町です。左折して一歩、通りに足を踏み込むと、道の様相がまたガラリと一変します。このあたりの、その目まぐるしいまでの変化がまた、森さんにはたまらなくおもしろいのでした。
道の両側の商店が、堂どうとした店構えになるのはもちろん、道幅も広びろと、たしかにメーンストリートなのだし、それにまた歩いている人びとの顔や姿や目つきまでが達っているのでした。
馬場家具店の奥行きの深い、ゆったりとした犬様な構えも好きでした。それから、ふたえだのショー・ウインドウです。森さんは、何となく、なぜか気恥かしくて、まともには見得ないのですけれども速くから、視野の中に、あの美しい人形がはいって来ると、つい、
「よう、美人くん、こんにちは」
とまず、心の中であいさつします。それから歩調をゆるめて、ゆっくりと歩きながら、そのころ学生たちの間で流行していた与謝野鉄幹作の
凄をめとらば 才たけて
みめうるわしく 情あり……
のうたを、口の中で口ずさむのでした。
美人像が近づきます。束髪のべっこうの花のとても美しい輝きーーー胸がわくわく高なるのです。そして、とうとう、側を通り抜けようどする時、チラッと横目で見、
「さようなら………おやすみ」
そう言い捨てると、もう絶対に後をふりかえったりなんかしません。ただ真一文字にしかも速歩で、トッ、トッ、トッと浜の町を通り抜け、鍛冶屋町を横切り、油屋町、徳利町。高平町になると、今度は小島川に沿った道を急ぎ足に、愛宕町の家へ帰るのでした。
空地のかきの木でせみが鳴きはじめました。
来春の受験を目前にして、森さんには犬切な夏休みなのです。それで田舎の父の家へは、お盆参りに帰っただけで、すぐに長崎へまい戻り、毎日図書館通いでした。図書館は涼しいし、受験参考書も完備しているし、だから
「ここを利用しない学生は、間抜けだよ」
と森さんはいいます。もちろん、わたしも毎朝さそわれて、はじめのうちはいやいやでしたが、ニ、三日ですっかりおもしろくなり、わたしの方から誘う日もあるようになりました。算術の参考書や問題集がいっぱいあるのには、ぴっくりしました。しかし、わたしは小説が好きでしたので、算術は三十分そこそこで切り上げ、あとは黒岩涙香訳の「鉄仮面」だの「巌窟王」だのを読みふけったものでした。
その図書館行きの森さんの友達に松村さんがいたのです。二人は同じクラスで互いに首座を争い合うほどの間がらだったのです。な村さんは英語が得意でした。それで五高の文科を受験するのだと言っていま した。
「森の数学は天才皓だから、あいつは、医学より理学の方がよいのさ。おれは法科か政治科か、それで外交官にでもなれるとよいのだが………」
松村さんは、そんなことを言うのです。わたしが鉄仮面を読んでいたら、
「ほう……六年生で、もうそんなのを読むのか。未おそろしい奴だ」
といって、わたしのおでこを突っつくのでした。
八月の十日過ぎのことでした。森さんと松村さんとわたしと三人で、茂木の白浜に海水浴に行くことになりました。八月も十日を過ぎると、暦の上では立秋過ぎになります。秋来ぬと、目にはさやかに見えねども………=@とうたわれているとおり、海原を渡る風には、やはりもう夏も終りに近づいたという感じが濃いのでした。
泳ぎ疲れて、白い砂の上に寝ころぶと、後方の丘の松の木影が長ながと砂の上に伸びて来て、肌をなでて吹き過ぎる風に、ほのかな冷気を感じます。時計を見ると、もう四時を過ぎているのです。
潮が満ちて来ていました。磯の岩場が、つざつぎに潮に没していきます。これでは、磯伝いの帰路は、とても歩けそうにもありません。それで、五の畑の中のあぜ道をたどることにしました。
赤とんぼが群れて飛んでいました。畑のかばちゃの葉影できりぎりすがしきりに鳴いています。雑木林で法師ぜみが、ツクックツシイ、ツクックツシイと鳴き出Lたりしました。
そんなあぜ道をたどっている間は、タ日が赤あかとつれなく照りつけるのです。けれども木立ちの間のタ影の小道になると、樹間に紺碧の潅が見下せて、吹く風も涼しく、つい、あの
妻をめとらば 才たけて………
の歌が森さんと松村さんとの合唱となり、わたしも聞きかじって知っているところだけ、その合唱に仲間入りをさせてもらっていると、松村さんが、
「こらっ………このうたは、子供のうたじゃあなかとぞ」
とわたしの頭をつっつきます。
「もうすぐ、中学生じゃもん」
わたしは、そう言って、平気でまたソプラノをはりあげるのでした。
潮見崎観音堂の上あたりまで来たところで、眼下の青あおと澄み透った海に、三人の少女がブレスト・ストロークのきれいなフォームで泳いでいるのが見えました。あまりに美Lいフォームだったので、わたしたちは観音堂のそばまで下りて行って、木立ちの影に立ちつくし、見とれていたのです。
やがて松村さんが、ニ本の指を口に当て、ヒューツ・ヒュー・ヒューツと犬海原の遥なかなたまで響き渡りそうな力ン高い口笛を吹きならします。すると、三人の少女たちが、そろってこっちを見上げました。そして、くるりと体をくねらせて背泳ぎの形となり、片手をあげてうち振るのです。
「やっぱり、そうだ。あの赤い帽子は、おれの味だよ」
松村さんが言いましたが、森さんは、その声も耳にはいらなかったようでした。まるで放心したように海面を見下しているのです。森さんの、そんな顔つきは初めてでしたから、わたしは、あきれ気味で、もう一度、三人の少女たちをながめ直しました。松村さんの味
さんだという赤い海水帽は左端です。その隣りの、紺の海水着に紺の海水帽の少女の顔を見て、わたしはあれっ……≠ニ思いました………だれかの顔だ。とっさには思い出せなかったのでしたが、すぐにああ、そうだ。あの顔だ。……浜の町のべっこう店のショー・ウインドウの中の美人の顔なのだ≠サう思うと、森さんが、放心するほどに、心を転倒させている理由がわかったのです。
三つのバック・ストロークの美しいフォームは、まだそのままでした。海の紺青に白じろと浮いて、姿体は、いよいよ美しいのです。そして、紺の海水帽の顔は、見れば見るほど、まさに、たしかに、あの人形そっくりなのでした。森さんの放心状態に気付いて、松村さんが
「どうしたンか。まさか、おれの殊に見とれてるのじゃあ………あいつ、ちよつとした美人に達いないからな」
わたしは、思いついたまま、
「あの、真ン中の、紺の海水帽ですよ」
そう言ってみました。すると松村さんは、
「ああ………あのべっこう屋の娘か。なるほど、こうして見ると、おれの味より、あれの方が、ちよつぴり、よいスタイルだな」
たしかに、そうなのです。妹さんも美人なのだけれども、胴長のずんぐり足なのに、その子は、手も足も伸び伸びとしていて、しかも色白でした。松村さんは森さんの屑をボンとたたき、
「あの娘は、おれの妹と同級生で、評判のお転婆でね………ちよつとお前の手には負えまいなぁ」 そうは言ったものの、すぐに
「でも、まあ、よかろう………手をふってやれよ。あの三人は、おれたちに好意を、構いっばい、示しとるのだ」
すると森さんは、勢いよく両手をあげて、犬きくうち振りながら
「おお− い」
やばったい犬声をはりあげたのです。すると紺の海水帽が、これも両手をあげてふります。それを見て、松村さんに
「わぁ−い。あのべっこう屋、犬いに気があるらしいぞ」
そう言われ、森さんは、もう夢中で両手をふり続けたのでした。
やがて、三人の少女たちは、あの見事なブレストで、岩影に見えなくなってしまいましたので、わたしたちも丘をくだりました。
馬車立て場に行ってみると、馬車もまだ来ておらず、ニ十分ほど待たねばならぬというので、ぶらりと近くの波止場へ行ってみました。ちようど天草通いの汽船が、桟橋に近づいているところでした。
へさきがグウンと高くそびえ、そこに古ぼけた「名草丸」 という文字がありました。港に並んでいる漁船ばかり見慣れている目には、犬きいなあと思えたのですが、
「木造船だ、百トンはあろうな」
松村さんがいいます。
「ようまあ、こんなボロ船で、天草灘の荒波が乗り切れるものだ。感心だよ」
と森さん。ニ人とも、くさしているのか、ほめているのかわからないようなことを言っています。
ぞろぞろと客が降りて来ました。波止場にはいつの間にか、人力車が来て並んでいます。重そうな荷物を特った人たちは、たいがい人力車に乗ってしまいました。
「ハイ………ヨウ」
威勢よく、かじばうが特ちあげられ、走り出します。見ていて気特ちのよいものでした。
たぷん、長崎まで走り続けるのでしよう。
「馬車も出るぞ」
森さんが、そう言って先に立ち、馬車立て場へ戻ってみると、御者はもう御者台に乗り込んでいてトテ、トテ、チテ、タァーと変てこなラッパを吹きたてていました。
「間に合ってよかった」
ほっとして、座席に着き、窓から外を見ると、潮見埼の方から三人の少女が走って来ているのです。
御者は、すでに馬の手綱を引きしめようとしていました。森さんが
「待ってくれよ。まだ二、三人は乗れる………あそこから走って来よるじゃンか」
御者はうなずき、もう一度、あの変てこなラッパを、トテ、トテ、チテ、タァーと吹きならします。
三人の少女のうちの、あのべっこう屋のおてんば娘が、まっ先に車の中へとび込んで来ました。顔が赤らんで、美しく輝いていました。森さんの側の空席に近づくと
「もうちよつと、席をあけてよ」
きれいな、澄んだ声でした。
「は‥はい、
森さんは、しどろもどろ。もうすっかりのばせあがってしまって、ただおろおろなのです。娘さんが座席に腰をおろそうとした時、馬車がぐらりと犬きく揺れて動き出したので
す。娘さんはドサリと森さんの犬ももの上に尻もちをついてしまいました。
馬車が走り出します。車が通れる道であっても、舗装などぜんぜん考えられなかった時代のことですから、石ころの多いデコボコ道−車は横にゆれるだけではありません。上下にもはねあげられ、揺りおとされするのです。そのたびに並んでいる座席のニ人のからだは、ぶつかり合います。動揺のすくない時でさえ、狭くるしい馬車の中なのです。どんなにからだを小さく小さくちぢこめていても、いやおうなしに、からだはくつつきあい、おしあい、へしあいというかっこうにならざるを得ません。森さんは、ただもう夢見心地のようでした。
うれしくて楽しい時には、きっと、不安でやり切れない気特ちにもなるものなのだそうです。森さんは、まさにそんな気特ちの連続の何十分間だったようでした。
田上立て場を出てからの三百メートルほどの間は、道の曲折もゆるやかで、傾斜もゆるやか、でこぼこも少なく、わだちの昔だけがうるさいだけ、動揺はいくらか穏やかになったようてした。
すると、娘さんが
「森さんは、なぜ、一高を受験しないのゾ
小さな、ささやきでした。森さんは、また胸にドキリと来ます。どうして名まで知っているのだろう。松村の妹さんから聞いたのかな1−−それにしても、この親しい者への話
しかけのようなささやきを、いったい、どう解釈してよいのだろうか………森さんが思い迷っていると
「森さんなら一高にパスの可能性ありというのでしよう。がんばってよ」
追いうちなのです。そして、森さんのニの腕は、いやというほどつねられました。森さんの全身に電流が走ります。それから、また、
「わたしも、東京の女子犬に、行く、つもり……よ」
そう言って、口もとに微笑をただよわせているーーー横顔をぬすみ見した瞬間、森さんはハッとしました。ショー・ウインドウのあのろう人形の横顔なのだ−−−しかも血が流れ、いきいきと光り輝いている生きた人形−−いや、人形じゃあない−−なま身の、あつい血のかよった、この手………その手を、森さんは夢中で握りしめていたのです。娘さんの手は、柔らかで、小さいなあと、ふと感じていました。それっきり、もう何も言い得ず、固く、苦しく………それでいて燃え立つ炎のようなものを目の前に見ている気特ちで、化石してしまっていたのです。
馬車がとまりました。森さんは夢の中にいる気特ちで、ここは八坂町だな、と思いました。その森さんの背中を、だれかがトン、トンとたたきます。森さんはふらふらと立ち上って、ほとんど婁を踏むような気特ちで、馬車からおりました。すると、あの娘さんが、
「………とうも」
と小さい声で言い、微笑し、会釈して、小走りに森さんから遠ざかって行ってしまったのでした。
その夜、森さんは、あつ苦しくて、ねぐるしくて、二階の部屋の障子は全部開けっ放しにしてしまっても、からだがホ力ホ力と火照って、眠れませんでした。明け方近く、東の窓からほのかな薄明りがさし込むころになって、やっと、うとうとと眠りに落ち−−−夢を見ました。
−−−黄金の観音さまの前に立っていました。これは、いつか、どっかで拝した観音さまだぞ、と思いました。でも、今立っているのはお寺ではない、茂木通いの馬車の中でした。だれかが手を引っばります。見ると、あの娘さんでした。紺の海水帽と海水着のまま座っているのです。その微笑の顔が輝き享す。娘さんと並んで腰をおろしました。そして柔かいその手をにざります。馬車の中には、ほかにだれもいません。娘さんが甘ったれた声でいいます。
「わたし、何でも日本一でなければいやよ」
そして、た手で、森さんの犬ももをトントンとたたきます。
「だから、一高でなければ、だめ−−それから東京帝犬よね−−恩賜の銀時計で卒業したら、就職なんかしなくってもいいの。あたしと二人で、すばらしいべっこう美術品を作りましようよ。世界一のダイヤモンドより、もっともっと高価な美術品−−−べっこうでなら、それができるのよ。だって、あなたは、日本一の犬学を一番で卒業してるんですもの」
そうだ、そうなのだ、おれには、それができる。この女と二人でなら、何だって日本一、いや世界一のものができる−−−そう思って、目をつむり、その女の柔かい手を、そおっと特ちあげ、どうしようかな、胸の心臓に当てようか、それとも唇に当てようか………と思い迷っていると、クワッと目の前がまっ赤になりました。ぴっくりして目を開けると、まっ赤に燃え立つ炎の中に、ものすごい憤怒の形相の不動明王−−よく見ると、顔は松村なのです−−!そして、手の利剣をふりあげ、無言のまま、森さんの胸へグサリ……
はっとして目が覚めたのでした。八月はまだ十日過ぎの、暑い朝でした。もう日は高くのばっていました。どこかで、じやごろ(くませみ)がセミセミセミセミセミと声高く鳴いていました。
森さんはピッショリ汗をかいていたのでした。冷水で顔を洗い、タオルで全身の汗をふきとって、いくらか、さっばりした気特になりました。
朝飯もそこそこに図書館へ出かけました。館をとりまいて、うっそうと茂った犬樹からは、ものすさまじい蝉時雨です。このせみたちは、昨日もおとといも、もっとずっと前から鳴いていたはずでした。だのに、今日にかぎって、とてもものすさまじく聞こえるのです。たしかに森さんは、いままでの森さんとは異っていたのです
松村さんは、もう来ていて、部厚な英語の本を読んでいました。森さんは、近づくと小さな声で
「話がしたい。ちよつと、外へ出よう」
誘われて松村さんは、うなずくど、本を特ったまま、森さんのあとについて来ます。
涼しい木影を選んで歩きながら、森さんが
「おれ、一高を受けようと思う」
思い決したという態度だったのですけれども、松村さんは、簡単に
「そうか………それはよかった」
と言っただけで、理由など聞こうとはしませんでした。しばらくして
「おれは、五高が、分相応というものさ」
そう言われて森さんは、話そうかと思っていた今朝の夢のことを、言いそびれてしまったのでした。
そして、おれとあの女とのことは松村とは無関係だ″強いて、そう思うことにしたのです。
九月になって新学期がはじまり、一週間ほどたった日のことです。
学枚の帰路を、例のとおり中島川沿いの道を来て、浜の町へまがり、やがて、ふたえだべっこう店の、あのショー・ウインドウが視野に入って来た途端………森さんはドキッとしました。そのショー・ウインドウの前に、あの娘が立っているのです。しかも、こちら向きなのです。まるで、森さんが来るのを待ちかまえてでもいたかのようーそして、ショー・ウインドウの中の人形とならんで立って、どちらが美しいか、見くらべてちようだい………とでもいいたげなのです。森さんが近づくと、右手を顔のそばまであげて、横に振るような、おいでおいでをするような、妙な動かし方をしました。ひどく、まわりの人目をはばかるような仕ぐさでした。森さんは、まわりを見まわしました。自分のまわりには、あの女の相手になれそうなものはだれも見当りませんでした。だどすると、あの女は、森さんに向って、あの妙な動作をしているのにちがいないのです。
森さんはまた、胸が高なります。どうしようかと、思い、迷い、じれて、ためらいが足に来………思わず、足がもつれ、森さんは、みっともなくも、ヨロヨロとよろめきました。転倒しそうになり、あやうく踏みとどまりましたが………何というぶざま−−恥ずかしい……森さんは、駆け出していました。
その次の日、学枚の放課後、森さんは今日の帰路に思い悩みながら、ひとり、とぼとぼと歩いていました。いつも歩きなれている川沿いの道が恋しいのだけれど、昨日の、あの浜の町のショー・ウインドウの前での醜態を思い出すと、冷汗がにじむのです。どうして、あそこを今日も平気で歩けようか、あの女が見ていようといまいど、そんなことにはおかまいなく、あつかましくも、あそこが通れるはずはない−−−自分で自分が情なくて、ひとりで顔が火照る思いなのでした。
歩きながら、しみじみと、ブロークン・ハート≠ニいう言葉をかみしめてみるのでした。“そしてもう一高なんか、どうでもよいのだ。長崎医専で結構じゃあないか−−−。
「おい」
と声をかけられ、森さんはビックリし、理由もなしに、いきなり駆け出そうとしました。
その腕をつかまれて、ふり向くと、松村さんのにこやかな顔がありました。
「昨日、彼女の目の前で、何かにつまづき、転びそうになって、あわてて逃げ出したそぅじゃぁないか。お前らしくもないぞ」
まったく、穴があれば、はいりたい気特ちです。しかし、松村さんは微笑しています。それは、慰さめだとか、ひやかしだとか、そんな軽薄なうすら笑いではないのでした。堂どうと、きのうのあの醜態を口にすることで、むしろ、森さんの気特ちを引き立てようとしている−−とさえ思えるのです。
「彼女は、そのあと、すぐにおれの家へ来て、妹に………何と言ったと思う」
森さんは、また、穴入りの気特ちです。
「………あんな、熱情家で、可憐で、純情な青年は、二人とはいない。だから親友になりたい。ぜひ、一高合格をお祈りする−−そう伝言たのむと言ったそうだぞ」
それを聞いて森さんは、またまた、雲を踏むような気特ちになってしまいました。熱いものが、力ッ力ッと頭の中をひっかきまわして、何とも言葉が出せないのでした。
松村さんは、しばらく屑を並べたまま歩いていましたが、やがて、ポッリと、
「お前が、一高を受けたいと言った意味がわかったよ」
と言い、それから、森さんの背中を、ドスンとどやしつけて、
「あのべっこう屋の娘は、たしかに美女だし、利口だし、行動的でもある。おれは、あんなお転婆はすかんが、穏やかなお前には、うってつけの好伴侶だよ。だから、日本一の学枚に合格して、世界一のべっこう商になるのも、生きがいのあることじゃあないか。が
んばれよ」
森さんの目から涙があふれ出て、どうにも止めようがなかったのです。松村さんの友情に感動しての涙でした。たしかに、犬声をはりあげて、思う存分、なけるだけないてみたかったのでした。
九月十五日。その日が日曜日だったので、よくおぼえているのです。わたしは、浜の町に買物に行っての帰りに、川沿いの道で森さんに出会いました。
「よおぅ」
と声をかけ、額の汗を手の甲でふいて
「おれ、田舎の家まで行って来る。昨夜、おやじが死んでね」
「それは………」
わたしに、お悔やみのことばをのべさせもせず、あたふたと森さんは急いでいました。
そう言えば昨日あたりから、森さんの母さんの姿が見えなかったようだったのです。
それが、森さんと会った最後でした。
−−ですから、これから後の話は、ずっと後になって、松村さんから聞いたことなのですーーー
村長さんだった森さんの父さんは、一次世界犬戦時の日本の成金的好景気と、その後のあの殺人的不況とのアンバランスに、村政の梶をとりそこない、役場吏員や小学枚教員の給料が支払えないという、とんでもない醜態があったりして、その責任を痛感したこととそれに加えて、私的な家庭のごたごたーー一顔はきれいだったけれども、欲ばりで、ずうずうしくて、下卑たおてつだいさんに子供をうませてしまったりしたものだから、その野放図な挑みをもてあましていたことなどが原因で、尋常でない死に方をしてLまったのだそうです。
男の子は森さんひとりだけでしたので、親類縁者が集まって、森さんに、ぜひ村へ帰って来て父のあとを継げどすすめるものだから、それをふり切って一高を受験するということは、犬変なことでした。
しかし、森さんはそれをやってのけたのでした。もちろん、その影には、母さんの尽力が犬きく働いていました。邸内には、あの強欲美人が居座っていて、てこでも動くものかとがんばっていたのですから、母さんとしては、そんな屋敷内にいるよりは、どこか、よその土地で息子と二人、平穏に暮したかったのです。それで、衆議の結果、まず強欲美人には相応のものを与えて屋敷を明け渡してもらい、その屋敷は、将来森さんが村へ帰って来れるように残しておいて親類の者たちで管理し、その他の田や畑や幾隻かの漁船とはすべて売り払って、森さんが犬学を卒業するまでの母子の生活費にしようということに決定したのでした。
次の年の春、森さんは見事に一高に入学しました。母さんは犬善びで上京し、小石川に小さな家を借りていたそうです。やがて東京帝国犬学に道みました。すると、今度はべっこう屋のあの娘さんが勇躍して上京、女子犬には入学しなかったそうだけど、とにかく、三人はとても仲むつまじく、関東犬震災後の、犬東京のふくれあがりの波にのって、田園調布に新居を構えーー娘さんの父親が上京して来て購入してくれた家でしたーー翌年になると、可愛いい赤ちゃんが一人ふえたりして、新宿のどこやらに、すばらしいべっこう店だか美術品店だかを出すのだと、張り切っていたそうですが、たまたま、時代が昭和初期のパニックに続いて、やがて窮屈な軍国主義の世の中となっていったものだから、それが実現したかどうかば、松村さんも知りませんでした。
けれども、時代の波がどのように変ろうとも、森さん夫婦の 「べっこう」 に対する熱情は終始一貫びくともしなかったはずなのです。だって、べっこうの商品価値よりは、美術価値を希求していたご夫婦でしたから−−。商品価値は時代によって、さまざまに変わることがありましよう。けれども美術価値は常に一定していて変わることがないのです。
松村さんは、最後にこう付け足しました。
「………とても、可愛いい子供なんだよ。あれは美術作品以上だね」
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