べっ甲細工とは
べっ甲細工というのは、南方の海域やカリブ海、インド洋の海域に生息している海亀の一種である玳瑁の半透明と黒褐色のまだらがある甲羅と爪、そして腹甲とを巧みに加工、細工し、各種の装飾用具としてつくられたものを我が国ではべっ甲(鼈甲)細工とよんでいる。
中国ではこの玳瑁細工の工芸品が六世紀末頃にはすでにつくられ、八世紀の唐時代になると盛んに製作されるようになったので、唐の朝廷は玳瑁や珠玉などを組み合わせて各種の工芸品をつくるのはぜい沢品であるとして、しばしば禁令が下されている。このように玳瑁は古代より貴重品として取り扱われていた。
唐時代の玳瑁の工芸品としては次のような名前があげられている。
玳瑁笛 玳瑁でつくった笛の一種
玳瑁梁 玳瑁のまだら模様で装飾してある梁
玳瑁簪 玳瑁でつくったかんざし
玳瑁梳 玳瑁でつくったくし
玳瑁状 玳瑁で作った寝台 <諸橋大漢和辞典より>
中国の昔の言葉の中に「玳瑁斎日」という言葉がある。この日は甲子、甲申の日であるとしている。この日、玳瑁は飼となる小魚を食べない日であると伝説している。この伝説は中国古代の人達が玳瑁に対して神秘な霊獣の一種と考えていたことを示しているのであろう。
玳瑁の玳という文字は中国では?という文字と同じ意で「甲」(羅)の意味があり、「瑁」という文字は「玉」の意味があるという。それで「玳瑁」という文字は「?瑁」という文字が用いられることもある。それでは、この玳瑁細工が一体いつごろより、どこで作られるようになったかということについては判然とした論文は発表されていない。
一説に玳瑁の原産地に近い地方の人達が装飾品として作りはじめたのが最初であろうという説がある。最初は亀の甲羅をそのまま装飾品としてもちいているうちに、次第にその亀の中でも美しい模様のある玳瑁のことが知られ、その甲羅を加工し、装飾品として使用するようになったのであろうという説もある。玳瑁が中国で知られるようになったのは紀元前一世紀、漢時代にすでにつくられていたという。
亀の甲の使用については中国大陸でも最初は亀トの用具としてあらわれてくるが、その中にはまだ玳瑁は使用されていなかったという。我が国で亀の甲を装飾として用いた最古のものとしては、聖徳太中国唐時代、玳瑁がどのように工芸品として使用されていたであろうか。このことについては次のように説明されている。
先ず玳瑁の甲羅で薄い透明の板をつくり、その裏がわより花鳥や山水を描き、その絵具がおちないように地塗し、これらの絵を表より透絵としてみる効果をねらったものがある。それは江戸時代中期以降に、我が国でも流行したガラス絵の技法と同様な彩画技法であるといわれている。 この技法は早くより朝鮮に伝わっており、朝鮮平壌府出土の彩画玳瑁残欠にこれを見ることができ、その残欠は楽浪郡時代の遺品であるという。楽浪郡というのは中国前漢の武帝が朝鮮の衛氏を滅ぽして朝鮮半島に設置した郡名でBC1〇8年に設置され、AD313年晋の時代まで継続し高句麗に併合されている。その間四〇〇年余り、楽浪郡は中国文化の中継地として重要な位置を占め、朝鮮及び我が国の文化にこの楽浪郡に伝えられた文化は多大の影響をあらわしているのであるが、その中に己に玳瑁の細工物があったことは玳瑁研究史上注目してよいことである。子の妃橘大郎女がつくったと伝える「天寿国曼荼羅繍帳」の周囲にかざられたものがある。BC一〇八年、我が国では弥生時代がはじまって間もない頃であり、AD三一三年は仁徳天皇即位の年としているので古墳時代である。この間に我が国では楽浪郡を通じて中国(大陸)文化の影響をうけている。
この時代、透絵の材料となったものは玳瑁だけでなく、馬爪や他の角質のもの、透明な水晶、琥珀玉なども用いたものもある。またこれ等の材料を用いて前述のように彩画、透画をしたものばかりでなく、裏面に金銀箔をはりつけ透視によってそれを見せる装飾法を施しているものもある。そのなかでも玳瑁の裏に金箔をはった装飾法はよくその効果をあらわしている。
玳瑁は以上のような装飾用としてのみでなく漢方薬としても用いられていた。それは高熱の体温を下げる解熱剤として高貴薬であったというし、その他いろいろの体中の毒物をなくす作用をする解毒剤としても知られていた。
注 古代の彩画については木内武男氏「玳瑁張経台と華角張りの手法について」参照