南蛮船の渡来とべっ甲


べっ甲製品の渡来のことについて前出の和漢三鉾戈図絵には次のようにいっている。
玳瑁 住古 阿蘭陀船持ち渡るところの品なり
しかし、玳瑁は近世オランダ船が持ち渡る以前、すでに我が国に持ち渡られていたことは、前述のように日葡辞書に収録されていることでわかる。それはオランダ船が我が国に入港し平戸で貿易を開始したのは一六〇二年(慶長七)からであり.日葡辞書が長崎で発行されたのは一六〇三年である。
ポルトガル船が我が国に入港し貿易を開始したのは一五四三年以来のことであり、近世にべっ甲を持ち渡ったのはオランダ船よりポルトガル船とすべきであるが、ポルトガル船と同時に当時薩摩、博多、平戸方面にはすでに唐船が入港していたのであるから、唐船によって持ち渡られた玳瑁もあったはずである。玳瑁細工は日ポ辞書が説明しているようにシナ人の細工人によってつくられていたのであるから、唐船による持ち渡りがあったことも充分考えられることである。
十六世紀末にはスペイン・ポルトガルに己に玳瑁の技法が伝えられていた。そしてスペイン・セビリヤには玳瑁でつ-られ銀の装飾がついた大きな十字架がつ-られている。この十字架の説明には「十七世紀南米でつ-られたものである」と記してある。カリブ海の玳瑠がつかわれたのであろう。この玳稽細工の技術はスペインが進出していたマニラ方面より南米に、それよりスペイン・セビリヤの町に伝えられたのであろう。このべっ甲の技術を伝えた人は多分シナ人と称されていた人達であったかもしれない。
セビリヤの港は十五世紀以来スペインにおける対外貿易港であったことを考えあわせてみると、スペインにおけるべっ甲細工の技術は、はじめセビリヤに伝えられ、それより現在まで伝えられてきたのであろう。このスペインのべっ甲の技術はスペインの婦人がベ-ルのために使用する大きなべっ甲の櫛Peintaとなっている。またセビリヤの修道院の1 つに赤色の玳謂でつくられ、銀細工を施した大きな箱Arconがあるが、その説明にも十七世紀南米でつ-られたものと記してある。この美しい箱の玳瑁はさきの十字架と同様にカリブ海産の玳瑠が使用されていると考えられるので、南米方面にも当時すでにべっ甲細工の技術が東洋より伝えられていたと考える。
このセビリヤの箱と同じ型のヨ-ロッパ風の大きな蓋付の箱arconがサントリ-美術館にある。箱の外面には象牙の模様を入れた黒い鼈甲の板が装飾としてはりつけてあり、セビリヤにある箱のように美しい銀の装飾はつけられていない。この玳瑁は印度洋産かフィリッピン産のものを使用し、その細工も日葡辞書に記しているようにその土地に住まっていたシナ人と称される人達の手によってつくられたものと考える。
サントリー美術館の学芸員のお話によると、この箱は我が国に伝世していたものではないようだとのこと であった。私はこの箱の製作地は十六、七世紀にかけ附てポルトガル人が力をもっていたマカオを中心とした地域で、ポルトガル人の注文により十六世紀末か、十七世紀につくられたものであると考えている。
我が国で十六、七世紀頃の、最も古いべっ甲製品として現存しているものは、静岡県久龍山東照宮に収蔵されている。徳川家康公の遺品の中にある「無関節式の鼻眼鏡の枠」であろう。この眼鏡は言い伝えによるとオランダ人より家康に献上されたものであるとされている。
家康の歿年は元和二年二月(一六一六) であり、当時すでに一六〇二年以来オランダ人は平戸に居を構え日本貿易に従事していたのであるから家康にこの眼鏡を献上することがあってもおかしくないことである。またこの眼鏡と同種のものがスリランカのコロンボ博物館に展示されていたという。(長岡博男氏著、日本の眼鏡参照)
家康の「眼鏡の枠」の製作者は多分マカオかバタビアに任まっていたシナ人の技術者であり、ヨーロッパ人より依頼をうけて製作したものであろうと考える。オランダ人が東洋に進出してくる以前、一五一〇年インドのゴアをポルトガル人は占領している。一五二一年にはスペイン人が南米を経て太平洋を渡りモロッカ諸島に進出しマニラを中心として活躍している。ポルトガル人はやがて一五五五年頃よりマカオを東洋貿易の根きょ地と定め中国貿易や我が国との交易を開始すると共に、マカオの地に一五六五年司祭館がつくられ、この地がキリスト教の東洋伝導の中心地となっていた。一五八四年のメシヤ神父の報告書によれば、現在のマカオに遺跡がのこっている聖パウロ教会に付属して建てられた学校には二百人の中国人子供達が勉強していたと記している。以来マカオの町は周囲の中国文化を取り入れつつヨーロッパ文化と東洋文化の接点として発展してきた。この中国文化との交流地点で玳瑁細工はヨーロッパ風造形の影響をうけたのであると考える。
家康の眼鏡はこのマカオ周辺のシナ人の手によってつくられたに違いないと私は考えている。すると家康の眼鏡はオランダ人ではなくて、ポルトガル人の献上品であったかもしれない。
十六世紀の我が国では眼鏡は非常に珍らしいものであった。それ故に一五五一年(天文二〇)ザビエルが大内義隆に贈った品物の中にも「時計、眼鏡、ガラスの盃、織物、油絵」などがあったし、一五七一年カブラル神父が織田信長を岐阜城に訪れたときには、神父が眼鏡をかけていたので群衆は「限玉が四ッある怪物」といって驚いたとフロイスの日本史は記している。このカブラルの眼鏡の粋がべっ甲であったか、どうかはわからないが、当時の眼鏡はヨーロッパでつくられたものであり、枠は主として金属製のものであった。枠にべっ甲製品がつけられるようになったのはポルトガル人が南方の海域に眼鏡を持ち渡った十六世紀中頃以降のことであると考える。
我が国に十六世紀末、すなわち近世のはじめに鼈甲製品をもたらした人達はオランダ人ではなく、ポルトガル人であったと考える。そして、その鼈甲製品はマカオを中心とした地域に住んでいたポルトガル人がシナ人とよんでいた人達の手によってつくられたものであり、その鼈甲の細工物はヨーロッパ風に造形されたものもあったと考える。前出のサントリー美術館所蔵のarcOn十七世紀の初め、我が国にはまだべっ甲の技術は伝えられていなかったのではなかろうか、当時のべっ甲の細工物はポルトガルの商人達の手によって、ときおり持たらされたものと、唐船の人達によって舶載されてくるのがあったであろう。然し一六〇三年長崎で発刊された目葡辞書にタイマイ・ベッコウの名称がのせられているのをみると、十六世紀末には一般にタイマイ・ベッコウという名称が我が国で知られていることがわかるが、タイマイについては「シナ人がつくる」といっているので日本人の細工人はまだいなかったのかもしれない。当時の日本人がべっ甲細工にたずさわらなかったのはその材料となる玳瑁が、輸入される「限られたもの」であったからであろう。などはその一つであったと考える。
長崎の港は一五七一年ポルトガル船の来航以来、一六〇〇年頃までは殆ど唐船の入港はなかった。その故に長崎に伝えられた初期のべっ甲製品は全てポルトガル船によって持ち渡られたはずである。十六世紀以降長崎に入港してきた唐船は、それ以前すでに博多、薩摩の各港、平戸には来航していたので、玳瑁という言葉は早くより、その方面には伝えられていたであろう。そしてそれはタイマイとよばれるより、日本人的にべっ甲とよばれていたのではなかろうか。
ポルトガル人はべっ甲のことをTartarugO(亀の一種)とよび、スペインでもCarey(亀)といっている。「たいまい」「べっ甲」という中国風の名淋はヨーロッパではもちいられることはなく、その材料とする亀を主体にした名前で「べっ甲」細工をよんでいる。

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