江戸時代のべっ甲


江戸時代、まずべっ甲製品があらわれてくるのは出島オランダ商館長が徳川将軍に献上した品物の中である。出島オランダ商館長エルセラックがはじめて江戸参府に出発したのは一六四一年十二月四日 (寛永十八年十一月二日) である。そして、その翌年の一月十五日 (寛永十八・十二・廿一) カピタンは将軍家光と謁見し種々のものを献上しているがその中には玳瑁(べっ甲) 製品の名はあげられていない。このときの献上品は時代を反映して甲胃、大砲、望遠鏡などが主な献上品であった。(長崎オランダ商館の日記 第一輯 P一四〇参照)
オランダ人献上品の中にべっ甲の名があらわれてくるのは万治二年 (一六五九) 二月二十八日のオランダ人献上二十一品の中に次のように記してある。(通航一覧による)一、べっ甲火燈 三つ
また寛文五年 (一六六五) のオランダが人献上十五品の中には次のように記してある。
一、鼈甲火ともし 二つ
次に延宝八年 (一六八〇) オランダ献上品の中にも鼈甲の製品がみられる。
一、鼈甲燈篭 二つ
当時のべっ甲製品はポルトガル船の敗退の後をうけて玳瑁の生息地に近いジャバ島に進出し、バタビヤ (ジャカトラ) に政庁をおいていたオランダの東印度会社の手によって我が国に持ちわたられて いた。通航一覧巻百五十四には「阿蘭陀国より商賣将来申候品々」と記し、その中に、「一、べつかう」と記してあるが、その次には次のように記してある。
右之内 一、土こはく 一、阿蘭陀唐皮 一、へいたらばさる 一、べつかふ  一、血竭 一、阿蘭陀はがね
右之分日本下値に御座候故 持渡不申候由申候
この文章には時代が明記されていないが通航一覧では寛文八年(一六六八)の以後のことであるとしている。というのは寛文八年幕府は物価急騰に備えて倹約令をだし唐蘭船に対してぜい沢品の持ち渡りを禁止している。このため「べっこう」は下値になったのである。
寛文・延宝の時代(一六六一〜八〇)鼈甲の髪かざりや細工物はまだ流行していなかったようである。その一例として長崎代官を勤め巨万の富をなしていた末次平蔵茂朝母子が、延宝四年一月(一六七六)密貿易に関 達していたことが発覚して財産が没収され、母の長福院は壱岐へ、平蔵父子は隠岐に流されるという事件があった。その際の「諸道具御拂之品之覚」が元禄四年末(一六九一)七月二日の日付で長崎県立図書館に保存されている。これによって末次家の家財の一切をしることができるが、その中にべっ甲製品はわずかに長福院の所蔵品の中に次の一点のみが記してあった。
貳拾番    一 べつこう かみさし  壱つ   註 原本には「へ」・に濁点なし
長福院諸道具延宝四辰七月廿一日より同廿三日迄入札を以御拂被成候代鍍
岩生成一先生は一六三六年をもって終了した朱印船時代の交易品を「朱印船貿易史の研究」ならびに「南洋日本町の研究」に詳しくあげておられるが、その品目の中に玳瑁はあげられていない、それは当時玳瑁が持ち渡られるということはあっても、取引にあたるほど我が国では必要としなかったからであろう。
天保元年(一八三〇)喜多村信節が編纂した「嬉遊笑覧」にはべっ甲(玳瑁) のことについて次のように述べている。
巻一下 ○玳瑁 琉球の俗常に玳瑁を簪とす「中山博信録」に風俗をしるしし処、婦女小民家簪用 玳瑁 長尺許倒? 髪中 翹 額上 髻甚鬆前後偏堕疑即所 謂 倭隨髻 也云々とあり「茅?漫録」などに倭堕髻をここの下げ髪といへり……………ここにて専ら玳瑁の櫛笄を用るはこれらの風をうけたるにや。(中略)また「世の人心」にべつかうの惣すかしのさし櫛と見えたり(天和貞享のころなり)透しの櫛は其の後元文頃より近く天明迄も行はれたり………「我衣」にべつかふ高價にて寛保頃(一七四一- 四三)細工人に上手出来て水の色よきにべつこうの黒斑を入て上べつかうのまがいに賣と云れど 朝鮮べっ甲にてまがい作る事はその先にあり。
「我衣」にはまたべっ甲のことを次のように記している。
明暦(一六五五〜L五七)までは大名の奥方ならでは、べっ甲を用いず;
元禄(一六八八-一七〇三)のころにはべっ甲も上品を選び 価の高下にかかわる.といえども金二両を極上とするべっ甲蒔絵も追々用いられ、元禄になり益々流行し、上品を選びて使用するようになりたり
これ等の資料によると十七世紀中頃までは、まだ一般にべっ甲用具は使用されることがなかったようである。前記のように末次平蔵の没収資財の中にもわずかに「かみさし一本」で、べっ甲の櫛はなかった。べっ甲が流行するようになったのは十七世紀末より十八世紀のはじめからであり、その価は二両というのであるから現在の十一〜二万円程度ということになる。べっ甲細工は大変高価な贅沢品ということになる
寛永八年(一六六八)幕府は「商賣仕間教被仰付候品」(通航一覧百五十五)の中に次のように記してある。
一、作り物 但鼈甲、角之類、練物、花人形、勾袋、其外色々
林源吉先生のお話によると、「高野山の清浄心院には徳川家光が献上したと伝えるべっ甲の細工の万年青があった。そしてその実は珊瑚で、きれいであった。」といわれた。戦後、私が同院をたずねたときには、この万年青は所在不明であるとのことであった。実際にこの万年青が家光の寄進というのであれば、この万年青はオランダ船か唐船により将軍家に献上されたものであったであろう。

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