長崎犯科帳とべっ甲


べっ甲は小量で高価な輸入品であり抜荷(密貿易)には好都合の品であった。その故に長崎犯科帳(森永種夫本)には?々それに閲した犯罪がでている。現存する犯科帳よりべっ甲関係を拾うと次のようになる。
1 享保二年(一七一七) 六月袋町商人井手口八郎兵衛は所持のべっ甲十七斤を購入したいというので
  持参したところ本博多町坂口にて強奪されたが、犯人四人は逮捕された。
2 享保十八年(一七三三) 三月十日恵美須町七兵衛・新五郎、港の唐船にて密貿易し反物・べっ甲を持ち
  だしたが、渕村の九郎兵衛はそのとき船を仕たてた礼としてべっ甲櫛二枚と反物をもらう。
3 元文四年(一七三九) オランダ屋敷内出入の磨屋町弥惣次、オランダ人大工ヱ〜ロンより鼈甲櫛形八
  拾枚を古金十三両にて買取るべくとりきめ、その代金を興善町大工治助が出島に仕事に入る際に持参
  させ発覚す。(入墨の上・住居差免)
4 元文五年(一七四〇) オランダ屋敷より出島乙名筆者雇の大工町善吉、鼈甲七枚をオランダ人アロン
  よりもらいうけ持ち出す。代金凡金二両三分、探番発見(入墨 戸払)
5 延享三年(一七四六) 唐人屋敷より桜町日雇頭清三郎、唐人屋敷より水牛櫛八拾枚持ち出す。大門に
  て改め出さる。(日雇頭解雇 過料壱貫文)
6 宝暦元年(一七四八)出島オランダ屋敷日雇西上町次右衛門、鼈甲二枚持出し発覚(五十た、き門前払)
7 宝暦元年 唐人屋敷出入野菜屋西古川町藤右ヱ門、べっ官に野菜賣掛あり、三宮と申す唐人べっ官の
  野菜代として鼈甲櫛形四枚懐中に投込む。これを無断にて持出す。(入墨 追放申付)
8 宝暦元年 唐人屋敷の四官、丸山町唐津屋登丘衛抱遊女三河元鼈甲の櫛を懸賣し、その代金を三河に
  督促、その手紙により発覚(関係者処罰)
9 宝暦二年(一五七二) 出島オランダ屋敷より丸山町唐津屋源五抱遊女はる鼈甲壱枚隠持出す。出島内
  にて拾ひ物という。(唐蘭館出入差留・無構)
10 宝暦二年 オランダ屋敷より丸山町油屋彦五郎抱禿まつ、オランダ人より貰った鼈甲一枚かくし持出
  す。(唐蘭館出入差留 無構)
11 宝暦二年 オランダ船に乗り込み抜荷をはたらき鼈甲爪六包龍腦壱包を持ち帰る。船番見習三浦八平
  (重追放)御役所触頭岡田八太夫忰和十郎(追放)町使高橋源助(追放)
12 宝暦五年(一七五五) 十月十九日出島オランダ屋敷より鼈甲の筵包みを紛失(盗み出)し多くの関係
  者を処罰す。
13 宝暦九年(一七五九)出島オランダ屋敷より鋼方小役、大黒町平兵衛鼈甲一枚持ち出すところを新番所
  にて発覚、鼈甲は出島芥の内より拾うという。(小役取り上げ唐蘭屋敷新地えの出入差止め十日押込め
14 宝暦九年 出島オランダ屋敷より、日雇東上町伝八鼈甲一枚持ち出し新番所にて発覚(十日押入)
15 宝暦十二年(一七六二) 鼈甲の櫛を船大工町与左衛門かたり取り立ち帰る。(五十敲 住居免)
16 明和元年(一七六四) オランダ屋敷のオランダ人より大村町武兵衛、銅座跡惣次兵衛など共謀し鼈甲
  二十斤『龍腦十六-八斤を買いとり抜荷す。(入墨中追放 五十敲追放など)
17 安永二年(一七七三) 天草都大江村政平、鰹節二百五十連を積み大江の浜に船がかり致したるところ
  旅船が漕付け鼈甲二叺、正味五十三斤五合と替物をし、これを天草志岐村万吉に賣りわたす。(鼈甲代
  金取上 過料三貫文)
18 安永二年 オランダ屋敷にて内中町甚蔵外共謀し、外科部屋二階にて給仕の黒人が通訳し、鼈甲一斤
  に付二両にて六斤金子十二両にて買いとり持ち出す。他にオランダ人は六十斤ほどあるのでこれも買
  わぬかと言う。(入墨重追放ほか急度叱)
19 安永二年 袋町中島久次郎鼈甲四箱十斤平を手板なく京都衣の棚押小路下ル町大和屋又七方元差の
  ぽす(十日押込)
20 安永七年(一七七八) オランダ船より今魚町市郎兵衛など鼈甲爪大小二包を持ち帰る。(五十敲)
21 安永七年 西浜町幸之助、万屋町善助オランダ船より取おろした鼈甲爪五六斤程あずかる。(中買株取
  放 過料三貫文)
22 寛政元年(一七八九) オランダ船より平戸町甚吉など共謀し金子七十両二歩をオランダ人に渡し鼈
  甲爪龍腦広東人参等抜荷発覚(入墨百敲)
23 寛政二年(一七九〇) 中紺屋町藤滅等は不正のことと知りながら人参、山帰来、鼈甲などを賣り払う。
  (五十敲 長崎払など)
24 寛政十一年(一七九九) 銀屋町多田屋忠兵衛、不正の鼈甲爪二十七斤、爪腹皮五十二斤綿の代銀とし
  て賣払う。(居町払)
25 享和二年(一八〇二) 唐人より浦上村稲佐郷稻之助、白砂糖、龍眼肉、亀ノ甲、手炉等を買取り山の内
  に隠置
26 文化元年(一八〇四) 京都鶴屋伝兵衛下代又兵衛、薩州より鼈甲、龍腦など差しのぽす。
27 文化三年(一八〇六) 長崎会所日雇東上町済次郎、会所より鼈甲六斤盗む。
28 文化三年 唐船修理中、樺島町利兵衛唐人と申し合せ、じや香、辰砂、虫糸、鼈甲を請取る。(輕追放)
29 文化四年(一八〇七) 手板なく、西浜町藤太郎白砂糖、鼈甲など差し送る。
30 文化四年 唐人より本篭町松五郎じゃ香一斤、鼈甲二斤三合抜荷す。(輕追放)
31 文化五年(一八〇八) 長崎会所蔵の錠がこわれ鼈甲四十二斤、同爪二斤五合他紛失
32 文化五年暮 恵美須町重右衛門土蔵より鮫六本、鼈甲十一枚などを盗む。(自訴により手鎖)
33 文化六年(一八〇九) 東中町嘉兵衛、猥りに賣られぬ鼈甲十七斤九合を銀二貫四百三十二匁にて買取
  り、江戸には壱斤に付百二十五匁にて惣代銀二貫二百三十七匁五分請取候段不届
34 盆文化七年(一八一〇)唐人より十善寺郷忠藏鼈甲三斤一合を渡す。届出でず。(五十日押込)
35 文化七年 西築町吉右ヱ門不正の品と知りながら、じや香十四斤、鼈甲五斤一合請取り取りさば区。
  (市中郷中払)
36 文化七年 唐人と小川町才蔵は小島郷さと宅にて密かにあい茶碗薬、人参、犀角、鼈甲四斤、爪一斤な
  ど抜荷す。(重追放)
37 文化七年 手板なく小川町林右衛門、鼈甲爪などを賣払(急度叱)
38 文化七年 手板なく束築町嘉三太、茶碗薬、虫糸、鼈甲など賣払(急度叱)
39 文化七年 手板なく小川町民蔵、丁子、鼈甲をなど賣払(急度叱)
40 文化九年(一八一二) 唐船と抜荷のため西中町善七等、深掘にでむき鰹節錫をわたし水銀、虫糸.鼈
  甲などをうけとる。(手鎮)
41 文化十三年(一八一六) 本石灰町夘兵衛、唐物類は猥賣買不成のに鼈甲十四斤を木綿五反綿二斤と引
  き替えにす。(急度叱)
42 文化十三年 西中町喜右ヱ門、手板なく爪三十四斤、鼈甲四十四斤預る。(急度叱)
43 文政元年(一八一八) 唐船え今紺屋町次三郎ら乗つけ抜荷をす。氷砂糖、広東人参、鼈甲十三枚請取 
  (自訴 中追放)
44 文政元年 唐船え出むき西中町帳面光蔵抜荷す。高島沖に出むき、大黄、じや香、爪一斤八合四夕、鼈甲
 二斤四合一夕など (唐人屋敷内前にて死罪)
45 天保六年(一八三五) 今下町倉太郎手板なくべっ甲、なまこをあつかう。(手鎖二十日)
46 嘉永元年(一八四八) 新石灰町初次郎、無宿友五郎より鼈甲皆懸五斤賣払のことを依頼をうく。(自訴 
  急度叱)
47 嘉永元年 唐人伝財使より唐通事小使常太郎は銀札を借り返済せぬので材木町万吉は、常太郎のあと
  を追い大阪に行く。その際犀角三十四斤、鼈甲爪二十五斤余、珊瑚珠七連などを浦上村馬込郷夘市より
  依頼され販賣、鼈甲爪は六斤九合を三十五両にて久兵衛に、五斤は和助え四十八両、四斤は二十二両二
  歩、三斤三合は嘉七え三十三両、三斤六合はちゑに十六両一歩、一斤と珊瑚珠七連は栄次郎え二十七両
  にて賣り、残り鼈甲爪一斤半は持帰る。(万吉は輕追放)
48 嘉永二年(一八四九) 諏訪町弥蔵と浦上村乙吉は唐人屋敷に忍入り唐人と抜荷し、その際べっ甲爪十
  斤、金砂石、龍腦などを盗む。(乙吉唐人屋敷門前にて死罪 弥蔵は行え不明)
49 嘉永三年(一八五〇) 恵美須町末蔵、島原の亀五郎より爪鼈甲其外の代金を不正物賣払代金と知りつ
  〜あずかる。(五十日手鎖)
50 嘉永三年 船津町亀次郎、熊本の重兵衛より犀角、竜骨、鼈甲爪の密賣をたのまる。(所払)
51 嘉永四年(一八五一) 大黒町作助、鼈甲爪外七品を不正のものと知りながら販賣を加勢す。(所払)
52 嘉永四年 油屋町文吉、不正の品と知りながら鼈甲外二品賣払う。(五十日手鎖)
53 嘉永四年 長崎村伊良林多蔵、不正の鼈甲爪外二品の販賣を助く。(五十日手鎖)
54 安政六年(一八五九) 今石灰町人別左馬次、鼈甲爪甲外二品不正の品と知りながら販賣を助く。(長崎
 市中を構江払)
現存する犯科帳でみる限りオランダ船がべっ甲を持渡ったのは寛政元年(一七八九)頃までで、その後のべっ甲は唐船持渡り品となっている。このことについて文久二年(一八六一)「河尻主人之応需寫之」として龍披.三谷重緒と大掘廣方の著名のある「玳瑁亀圏説」に次のように記してある。
○安永年末頃より阿蘭陀玳瑁甲不 持渡 唐船より塙瑁を多く持渡る。是迄も少し宛は唐船より持渡る下
 品物多し。
○天明二年(一七八二)より玳瑁・爪当地にて追々櫛笄に作り始。其後年は玳瑁甲・爪取交え舶来せり。玳瑁・
 爪来着の記
唐方より舶来は甲と同じ、大阪より当地え始て来着は天明二歳頃、江戸十軒店唐木屋七兵衛殿方へ始て大爪着す。夫より追々細工に用ることを知て櫛笄簪等に作る。其後は甲爪両品舶来に依て打交て細工に用る。是迄当地にて爪用ることは勿論不 知。上方筋も同様と相見え、先年甲箱詰にて来る節、箱の内、藁の替りに詰込に致来る由聞伝ふ。依 之か一説に詰甲と云、音を仮りて爪甲と云とかや。謂 然 字像には不当、実は縁甲にて可然事也。
べっ甲には以上二つの他に腹甲というのがある。玳瑁の腹の甲という意味である。本図説には次のように説明している。
玳瑁服甲之記 玳瑁亀に具足する服甲故、甲爪同様に持渡る筈に思はるる処、舶来無 之は如何哉 末 詳。京都大阪周辺迄は邂逅登る由、江戸表にては是迄不 見。但し小爪内より稀に出ること謂 有 之。一、二枚にて至て少し。玳瑁家照芳翁公、三度取扱給ふ性合色立宜。極めて柔にて附口よく最上なる由、甲と異なる無し。謂 然 種々の性合これあり下品の物など可 有 之に思はる。天保十一庚子年(一八四〇)夏、炭屋彦兵衛殿大坂より買下し品に右服甲四斤入一箱見 之、此内全玳瑁、服甲半これあり、肉合一二分、色合申分、其余半は通例唐服也 (唐服と通名する物、唐のセウガクボウの服甲也) 四斤入一箱代金七十両、其高科に思はる。尤生地拂底の時節故もこれあり、併始めて賣物に見及ぶ所也
オランダ船がべっ甲を持ち渡っていたのは犯科帳に見るかぎり、寛政元年 (一七八九) に入港した蘭船を最後とし、次の享和二年 (一八〇二) の鼈甲に関する犯罪の時には唐人より買いうけとなっているので、この間に唐船がべっ甲を持ち渡り、以後はずっと唐船持渡り品となっている。然しそれ以前にも唐船が持ち渡っていたことは「玳瑁亀図説」 に記してあるし、犯科帳の延享三年 (一七四六) 宝暦元年 (一七四八) の事件は唐人屋敷よりべっ甲を持ちだした事件であり、この頃すでに唐船でもべっ甲が運ばれていたことがわかる。
唐船の人達もオランダ船の根きょ地バタビヤ付近より玳瑁は買いつけていたのであろう。このことについて一七三五年バリーで出版された 「中国人の貿易」 の中に次のように記してある。
(中国の人達は)バタビアから次のものを買い入れる。………第三番目は亀の甲羅、これで中国の人達 は美しい工芸品をつくる。例えば櫛、小箱、ボタン、ナイフの柄、パイプとたばこ箱、このパイプとたばこ箱はヨーロッパのものに倣って作る。(結城了悟神父訳)
   DuHalde,J.B "DescriptionGeographique-deL'EmpiredelaChine",Paris1735
   volII p.172 DuCommercedeschinois
これによって、当時の中国の人達がつ-っていた玳謂の品物がわかる。
犯科帳をみると更にべっ甲の取引代価がわかる。例えば宝暦十二年(一七六二)には鼈甲櫛一枚代銀宙四十日とあり、文化六年(一八〇九)には鼈甲十七斤九合の代価は銀壱貫四百三十二匁であり天保六年(一八三五)べっ甲一提(十二枚)代金十五両などとある。それにしても玳瑠亀図説に天保十一年(一八四〇)大阪にて四斤入り一箱七十両というのは驚-ほどの高価であるo
ベっ甲は手軽であるのに高価の故によ-抜荷の材料となったのである。犯科帳では宝暦年問(一七五丁一七六三)と文化年間(一八〇四〜一八一七)がべっ甲の犯罪が多かったのはこの時代を頂点にべっ甲が流行していたからである。
「玳帽亀図説」によると江戸では元禄の頃(一六八八-〜一七〇三)よりべっ甲細工は始められたとして次のように記している。
細工物の祖 末 詳 元禄歳中末 頃、江戸日本橋室町住、玳瑠の職人亀田屋万右衛門殿、見世先に細工致し居り候処、廻国の六十六部、暫-立止て見 之、而して玳相接附することを伝授す、困て始て接事を知と云
玳瑁の爪の細工物については「玳瑁亀図説」 によると次のように江戸では天明二年(一七八二)頃よりはじまったとしている。
(玳瑁の爪は)唐方より舶来は甲と同じ。大阪より当地え始て来着は、天明二歳の頃、江戸十軒店唐 木屋七兵衛虎方え始て大爪着す。夫より追々細工に用ることを知て櫛、笄などにつくる。

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