べっ甲の輸入


通航一覧百五十五によれば、従来より「唐阿蘭陀より持渡り停止の品」も「元禄十年(一六九七)丑八月廿三日 丹羽遠江守様 諏訪下総守様(共に長崎奉行) 御立会之節 於西御屋敷 以前之通持渡り次第商賣可仕旨 御赦免之御書出 年番町年寄後藤庄左衛門方之御渡被成候
といっている。これによりべっ甲は再び持ち渡られ、我が国でも大いに加工されてきたのではなかろうか、長崎実録大成第九巻 阿蘭陀船入港並雑事之事に次のように記してある。
 一、元禄十五年 (一七〇二)、四艘入津
今年により大針口にて諸糸、薬種、?、鼈甲等掛ケ渡
通航一覧百五十五 享保十四己酉年(一七二九)七月二日、「紅毛船長崎え入津 船積の覚」に、次のように記してある。
 一、鼈甲 三百三十斤
同十五庚戌年 (一七三〇) 入津 阿蘭陀船荷物の覚
 一、鼈甲 五百九斤                     (以上月堂見聞集)
享保十四年 今度長崎之阿蘭陀船二艘入津荷物之事
一 亀 胴三間三尺、高さ八尺、廻り厚さ二尺余    (世説海談)
天明元辛丑年(一七八一)阿蘭陀船一艘に積入申候荷 物如左
 一、べつかう  二千四百七十一ポンド
享保元年(一七一六)長崎奉行であった大岡備前守が幕府の貿易改革の資料として編纂した崎陽群談第九 和蘭人往来之所々・同産物・外国海路遠近の中に次のように記してある。
 一、オランダ国(同一万二千九百里程) 合七
 土産 猩々緋 大羅紗…… 鼈甲…
 一、スマアニラ(日本ヨリ二千四百里程)但嶋
  土産 金 イワウ ヘイグラハサル コセウトウ アンダゴザ 鼈甲
此国え阿蘭陀人商賣に相越候
また同書第八中華省府県等之大概 西洋之港国……のうち広東省十五省の中に次のように記してある。
 瓊州 土産 椰子 梹椰子 沈香 烏木 花梨木 玳瑁 車渠
また長崎実録大成=明和四年(一七六七)田辺茂啓編=第八巻交易往来之諸処里数産物之事の中に次のように記してある。
 スマアタラ 金、玳瑁、バザル、胡椒、籐、硫黄
江戸時代、玳瑁はスマトラと、中国広東省瓊州に産すると考えられていた。
長崎県立図書館に「薬種荒物類」(渡辺文庫)という写本があり、その表紙裏には墨書して次のように記してある。
 唐方
 薬種荒物生類渡来年代明細書   長崎記録
この本の筆者は薬種目利であり、ここにいう唐方というのは蘭方に対して漢方薬として使用する薬の意で、唐船よりの積渡りの意であろう。この中に次のように記してある。
 一、屑鼈中 宝永六丑年  正徳五未年  享保六丑年  同 八卯年  同 九辰年  同 十巳年
天明二寅年 同 三卯年  同 六午年持渡其後持渡不申候
一、鼈甲    元禄八亥年    宝永三戌年    同 五子年    同 六巳年    宝永八卯年    同 九辰年
          同 十巳年  
          寛保元酉年より宝歴十辰年迄
          明和元申年より寛政三亥年迄持渡其後持渡不申候
一、鼈甲爪  宝歴十辰年    明和三成年    同 四亥年    同 五子年    同 七寅年    同 八卯年
          天明七末年    寛政二成年    同 三亥年 持渡其後持渡不申候
一、薬鼈甲  寛政六寅年持渡其後持渡不申候
前出の通航一覧百五十五に元禄十五年よりべっ甲を持ち渡ったとしているが、それより以前元禄八年すでに持ち渡った鼈甲は薬物としてのものであり、元禄十五年の持渡りべっ甲はこの薬種荒物類に記されていないので細工物の鼈甲は別扱いにしたのであろうか。
薬用のべっ甲のことについて玳瑁亀図説は次のようにいっている。
御公儀奥医師方、玳瑁甲爪御望之方は願済の上、毎年一二斤又は五斤七斤宛御願請相成、其荷物は長崎会所にて御調進と唱る甲爪有 之、其内の御差向に相成由、江戸着之節鼈甲屋御呼被成、毎三四月之頃賣拂に相成。但し右願請無 之年も有 之と相見え御拂爪不 出事有り、如 此御拂に相成 薬品には御用ひ無 之由也
天文五年(一七四〇)カンポチヤより来航した唐船は生きた玳瑁を持渡った記録が「長崎実録大成」に次のように記してある。
巻十五、年表擧要
元文五年 六月二十八日 東捕寨より生活玳瑁一ッ持渡る。御窺の上八月廿三日江府え差上之。
巻十一、元文五庚申年  二拾五艘入津 外に迎船一艘
一、六月廿八日東捕案出の船より生玳瑁一つ持渡る。館内にて小役の者二人に養ひ方を見習せ八月 廿三日江府に差上らる。其節足輕二人被 相添 、大坂迄右小役の者差添、道中の問養ひ方を足輕に見覚させ、小役二人は大坂より当表に帰り、足輕附添江府に差上らる。
このことは江戸時代を通じて我が国で生きた玳瑁を見ることができた唯一回のことであった。この玳瑁はその後江戸で飼われていたことであろう。

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