べっ甲の種類その他
「玳瑁亀図説」を参考にしてべっ甲の材料を記すと、次のようになる。
玳瑁の甲は十二枚でつくられており、この一匹の亀の甲十二枚を木綿の赤紐で一連にくくり、これを一提といった。この一捏十二枚は次のように分類されている。
一、襟甲 俗にトムビ甲という。他の甲より肉薄く色合やや劣る。(黒斑)
一、肩甲 鮒甲ともいう。トムビ甲の下にて厚く、色合トンビ甲と同じ
一、背甲 背の中の甲、肉中分、色合きはめてよし (赤斑)
一、大甲 俗に量甲という 鮒甲につずきイテウ甲の上にあり 襟と尾の真中にあり、肉合中分、
平均してのび、色合きわめてよく、価も高し (赤とろ十斑)
一、銀杏甲 尾の脇の甲左右に相対す 亦ヤキメシ甲ともいう。色合量甲につぐ(赤斑)
一、背量甲 背通り五枚の終り 肉合きわめて厚く 色合銀杏甲に次ぐ(うす黒の斑
この他に玳瑁については前述した玳瑁爪と玳瑁の服甲がある服甲は玳瑁の腹の甲であるが驚くほど高価であるといっている。現在でも服甲は高価であるという。それは一般に好まれる飴色べっ甲と称するものが、多くこの部分からつくられるからである。
長崎に輸入されてきた玳瑁は、江戸時代の中期以降は他の積荷と共に先ずオランダ船の場合は出島の荷倉に、唐船の場合は新地の荷倉に納められ、ついで長崎会所の役人が支配して五ケ所商人(京・大阪 ・堺・江戸・長崎の商人仲間で特に唐南貿易取引きの許可を持っている商人) によって入札がおこなわれた。落札した商人は玳瑁をひきとり、長崎の地もとで使用する玳瑁は別にして、大部分のものは松坂でつくった箱に納め、箱は釘づけされ、紙で目張して、取引許可書とも云うべき「手板」を添え大阪の唐物問屋に発送した。箱の蓋には次のように記してあったと「玳瑁亀図説」はその箱の図をのせている。
何印 合印 山中
極上大晶鼈四拾三枚
(小 子三月
大阪の唐物問屋では仲買人を集めてこれを取引きし、それより江戸その他に持ち帰っていた。但し文化六年 (一八〇九) 以降は江戸にも問屋ができたので、玳瑁の荷を江戸にも送りつけるようになった。この頃江戸で「べっ甲商」 は十一軒であったと記している。
この荷造りのことについて享和年間 (一八〇一-〇三) に編纂されたとする「華蛮交易明記」 (長崎県史第四中田易直氏編)に当時の「べっ甲」はオランダ船より輸入されていたので「べっ甲」その他を落札した商人について次のような入目を必要としたと記している。
○阿蘭方人目之覚 阿蘭陀方より落札商人之荷請取之節事也
一 宿砂 皿多阿仙薬 漆 沈香…………鼈甲 丹丁子 痰切 刻擯榔子 象牙 朱砂 右百斤付四拾
目宛
更に長崎で落札した輸入品を一八世紀の末大阪方面に輸送し販送するまでの取引き方法、商業慣習などのことを記した 「明安調方記」 (長崎県史 第四 森岡美子氏編) には次のように記してある。
薬種荒物外掛細書
一、鼈甲一駄 十ケ入七櫃 此斤数七拾斤 壱匁八分貳り 十五斤入五櫃 七十五斤入 壱匁七分
一、廿九匁四分 一、壱匁 一、八十六匁 一、一匁三分五り 一、二匁九分六 一、六匁四分
櫃五ツ 釘半斤 太ちん 中間三枚 なわり十 五ケ月 〆百廿七匁一分一り
京、鼈甲 細物類口銭 一、鼈甲 荷主壱歩 買人貳歩 壹歩口銭之品左通り 象牙 魚膠 虫糸 線香 鼈甲 反物……………
大阪諸代物口銭定
一、象牙 一牛角 一虫糸 一朱類
一、鼈甲 ………… 賣人 壱歩 右 買人 貳歩
諸代物藏舗之定
一、薬種櫃入 一同箇物 一鮫
一、鼈甲 一虫糸 一唐?
〆壱箇に付貳分宛
宰領駄積定 壱駄二付 西目通壱匁八分 東目通壱匁六分
一 鼈甲 拾五ケ入 五櫃五
拾斤 入 五櫃七
八斤 入 七櫃八
六斤 入 九櫃十一
阿蘭陀方入日之分
一、鼈甲 百斤に付四拾目
阿蘭陀詞
一、鼈甲 ケレット
明和四年亥十二月五ケ所相談之上 陸為登荷物極メ之事 陸荷物
一、人参類 一牛黄 一竜悩 一伽羅 一、鼈甲
寛延二巳年(一七四九) 四月改
堺糸荷廻船運賃定
一、象牙 百斤に付 五匁壱分 唐木類 〃 五匁七分 鼈甲 〃 三分
右寛延貳年巳三月改之
堺糸荷藏中 船改西田嘉助 船宿天平屋善兵衛
西目通、東日通というのは同書に次のように記してある。
西目通道中附 長崎-時津。時津-四丁立八百文三丁立六百文彼杵(註船による)彼杵-嬉野。嬉野-楢崎
楢崎-北方。北方-小田。小田-牛津。牛津-佐嘉……山家…西目通小倉迄 五十六里十九丁
東日通道中附 長崎-日見太賃二百四十酒手百文。。日見-矢上。矢上-諌早 諌早-住吉壱の八百文貳丁立
(註船による) 住吉-久留米。久留米-松崎。松崎-山家……………東目通小倉之 五拾五里 十貳丁
鼈甲は前述のように糸荷宰領により他の貿易輸入品と同様に大阪に送られた。
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