長崎のべっ甲屋
江戸時代における長崎のべっ甲屋について記したものは殆んどみない。林源吉先生は長崎談叢第一輯 (昭和三年刊) に長崎名物として鼈甲細工をとりあげ次のように述べられている。
長崎鼈甲細工の歴史について過去の文献は1元唐伝なりーとお茶を濁し、年代など更に記載され てゐないようであるが 「元禄時代丸山附近に多くの鼈甲職人があった」 と嘗て古賀十二郎先生が教示された。貞享時代玳瑁櫛を用ひたことは前掲の如しである。(元禄時代は)唐伝の影響を受け長崎の商工が著しく発達した好況時代である。丸山遊廊が開設された寛永の頃或は二十余年後の寛文時代長崎の遊女の玳瑁の頭飾品を用ひてゐたのではあるまいか。………
ベっ甲の細工物は江戸時代を通じて、その殆んどが髪の用具(櫛、簪、笄) であり、それが一般に流行するようになった年代は貞享.元禄時代(一六八四-一七〇三) からであるというのが通説である。
「我衣」にはべっ甲の櫛について次のように記している。
明暦(一六五五-五七)までは大名の奥方ならではべっ甲は用いず、遊女といえどもつげの櫛に鯨の棒笄を挿したりといえり
貞享三年(一六八六) に発刊された「一代女」にも当時はまだべっ甲の櫛は一般に使用されることが少なかったとみえて次のように記している。
未だべっ甲の櫛なかりし故、笑を賣る女さえ象牙櫛を挿す然し天和二年(一六八二)刊の井原西鶴の「好色一代男」の中には「べっ甲のさし櫛は本蒔絵で銀三匁五分」と記しているので、当時よりすでにべっ甲の櫛はぽちぽちと使用されていたのであろう。
これが元禄、享保時代(一六八八1一七三五) になると盛んにべっ甲の髪用具のことがあらわれてくる。例えば元禄三年(一六九〇)刊の「人倫図棠」の職人の部に髪用具を「タイマイを以て作り蒔給金具を彩りたり」とか、近松門左衛門の博多小女郎浪枕(享保三年(一七一八)刊)にも「テリヨイベっ甲百斤……」などがあらわれてくる。
長崎の丸山の遊女達も元禄の頃にはべっ甲の櫛をさかんに用いている。天明三年(一七八三)長崎で歿した中国銭塘の人江鵬はその著「袖海編」の中で長崎の遊女のことを記して
遊女は化粧も上手で、美しい顔にみごとな衣装裳をつけている。たいまいの櫛をたっとぶ。一つで百両あまりするものがある。(長崎県史 第三より)
丸山のことを記した寄合町諸事書上控帳よりべっ甲関係を拾うとオランダ人より遊女にべっ甲を贈った記事などが次のようにのせてある。
宝暦四年 (一七五四) 八月廿五日
一、べっかふ爪 五ツ
右之通阿蘭陀人より町内油や利三太内小太夫貰置申候間 御願御渡可被有之 仍而如件御座候
このべっ甲については遊女に渡してよろしいとの許可が九月一日に出されている。
同年九月十九日にもオランダ人は遊女玉菊へべっ甲櫛などを送っている。
一、べっこう櫛類 拾一枚
右は、阿蘭陀人やんべっきょり町内三国屋李右衛門内玉菊へ遺候を御預御渡被成 慥に受取申條早
速右之遊女へ相渡申候処 相違無御座候
宝暦五年(一七五五) 十月廿一日にもオランダ人がべっ甲を次の遊女に贈っている。
覚
一、べっ甲 廿五 沖星利三太内 夕ばえ
一、べっこう 五枚 岩見屋茂三太内 浅妻
右は阿蘭陀人より右之遊女共遺候を、御渡相成、早速、右之遊女共へ相渡申條処 相違無御座候 以上
宝暦九年 (一七五七) 九月三日
一、鼈甲爪 四拾弐
右は阿蘭陀人より町内筑後屋甚蔵内色袖貰置申候聞 御願御渡可被下候 為其如此御座候
文政三年(一八二〇)十二月十三日引田屋遊女は鼈甲の箱をもらっている。この贈主は記されていないが他に阿蘭陀絵 酒入ふらすこなどをもらっているので贈主は出島のオランダ人であったと考える。
一、疵硝子塩入 七つ。 一、疵硝子鉢 二つ。 一沓 二足。 一ぶりつき罐。 二、。 一、鼈甲箱 壱つ。 一、阿蘭陀紙 引田屋鉄之助抱遊女 ひすい
右、小貰之品御渡被成慥受取向々之相渡申候馬 其如此御座候
この他宝暦十四年(一九六四-明和元年) 三月晦日唐人屋敷内で縫死した門屋しま抱遊女沢山の遺
品の中に「水牛櫛二本」があった。水牛の櫛も丸山遊女は使用していたので為る。
この他同書にはべっ甲の櫛を盗まれた事件三つをのせている。
その一つは宝暦十二年 (一七六二) 四月十二日べっ甲の櫛を盗まれたのが初見である。べっ甲の櫛は高価なものであったから、遊女たちはこの時代多く愛好し、外出に際してもこれを用いていたので盗難にあったのであろう。
乍恐口上書
一、べっかふ櫛 壱枚
明和二年 (一七六五) 三月三日、大黒星甚吉は次のように届出ている。
乍恐
一、べっかふ櫛
右は、先月廿九日昼暮六ツ時頃、私召抱之浮浪と申遊女、小島郷稲荷社之参詣仕候処 於途中被
盗取被申候 尤面体は見知不候申に候。乍恐御吟味焉成下候様奉願候 大黒屋甚吉 大黒屋は同年七月十七日、再びべっ甲櫛の盗難にあっている。どうしたことであろうか。
一、べっかふ櫛 壱枚
右は昨十六日之夜八ツ時頃 被盗取申條、乍恐御吟味被焉成下候様奉願候 寄合町 大黒屋甚吉
右の通申出候に付 御届申上條。御吟味被焉成仰付被下條はゞ難有奉存候 以上
七月十七日
右は昨十一日之夜四つ時頃、私抱遊女吉川と申者、油屋町石橋の上通り掛けに被盗取申條。
乍恐御吟味被焉成下候様奉願候 寄合町 大坂や勘三郎
右之適申出候に付御届申上條 御吟味被焉仰付被下條はつ難有奉存候 以上
午四月十二日
御奉行所
江戸時代長崎の町にべっ甲細工をする店があったが、それがどこにあったかそれが何軒あったか明記したものをみない。ただ享保年間(一七一六-三五)すでに長崎の町には多くの「べっ甲屋」があったと考える。それは享保六年(一七二一)長崎に大洪水があったとき長崎奉行所は救援金を出しているが、この救援金をうけた人々の中にべっ甲細工人の名前が「長崎港草」に記してあるからである。
そしてこの細工人は水害をうけた一部の地区の人達のみの人名であるから、市内一般のべっ甲細工人を考えるとその数が多かったはずである。
拝借銀
一、銀五百目 鼈甲細工人 酒屋町 鼈甲屋利左衛門
一、銀五百目 ヾ ヾ 鼈甲屋八兵衛
一、銀三貰五百目 鼈甲觴薪商人 西古川町 桔梗屋七兵衛
これによってみると酒屋町には二軒のべっ甲屋があり、その向こう側中島川をはさんだ西古川町にもべっ甲屋があった。玳瑁亀図説にはべっ甲の手板を説明した文中に次のように長崎酒屋町にべっ甲
を取扱う店として江崎安太郎の名が記されている。
己三番船御調御拂之品長何商人松崎屋興之助より買請
一、極上 頂字鼈甲 五ケ
午弐番割高木作右衛門様御数之品同断
一、右同銘 弐斤五合
同割同断
一、極上球字同 弐斤五合
同割福田源四郎殿御願請之品
一、右同銘 壱斤五合
〆 入合 壱箱
長崎酒屋町
江崎 安太郎
文政五年午七月
江戸両国吉川町 上総屋庄助殿
註 欄外の註に、「手板如此、仙花に似たる立紙に相認有之、尤荷数商賣人の名前等は皆可 還、是は本店主人長崎に参る節買請、荷物え添、手板にて其侭買還処也
べっ甲屋は中島川筋の酒屋町 西古川町の当時の長崎のにぎやかな通にあったのではなかろうか。
長崎の土産を紹介したものとして、古くは西川如見と忠次郎父子が享保四年 (一七一九) に発刊した「長崎夜話草」があるが、この中にはべっ甲細工は長崎土産としてのせてないし、文政初年頃 (一八一八) 編構された長崎名勝図絵にも、大正二年福田忠昭が編纂した「幕府時代の長崎」名産の部にも「べっ甲細工」 はのせられていない。
このようにべっ甲細工を長崎の名産品としてのせなかった理由は、それがあまりにも高価で、贅澤品で容易に一般の人達の手に入らなかったことと、材料の玳瑁が輸入品であり「べっ甲」の細工物を作るのに限度があったこと、西川知見がこの本を著述した元禄時代には、べっ甲の髪かざりがようやく流行しはじめた頃で一般にはまだ用いられなかったこと、べっ甲は当時、注文に応じてのみつくられ店先販賣はなかったこと。などが考えられる。長崎名勝図絵にべっ甲のことをのせなかったのは、以上の理由の他に長崎 名産品は長崎夜話草を継承して書いていることと、当時すでにすばらしいべっ甲細工が江戸、大阪の地でもつくられていたからではなかろうか。
長崎のべっ甲細工が盛んとなり、諸書に長崎名産としてべっ甲細工があらわれてくるのは次の明治時代を待たねばならない。
文化元年(一八〇四) 長崎奉行支配勘定役として赴任してきた蜀山人太田直次郎は、長崎土産にべっ甲を購入して翌文化二年江戸に帰ることにしたが、そのべっ甲は非常に高価であった。蜀山人はべっ甲があまり高いので 「けしからぬ事に候」 といっている。このことを蜀山人は文化二年二月廿六日に島崎金次郎あて次のように書きおくっている。
鼈甲はとかくむつかしく、家中へ引上拂出し候由、手板にて江戸に持参らせ候ても至て高科のよし、笄かんざしなど此節市中拂ものに出候も、かんざしは二本にて六七百匁などいう事にてけしからぬ事に候、大阪鼈甲屋大みせ一三井出店-有之、此方きてつもらせ見可申と存候、当地に一軒其事功者成もの有之、いつれにも安くつまま本金壱両位之事に申候、吉見氏よりも鼈甲の事聞合参候、御出会の節お咄可被下條、いづれ後便、大阪便に大阪店を聞合相場を承り合可申、北町お幸お冬などよりもねだり申来居候処、右の仕合放いづれ御普請役其外も一同当所並大阪に相正し條つもりに御座候
このように高価なべっ甲でつくられた櫛・笄・簪について「玳瑁亀図説」はその作例を彩色で編纂されている。それを見ると実にすばらしいべっ甲細工を完成している。そして更にこのように高価なべっ甲製品であってみれば、これに対する模造品がつくられるようになってきた。「嬉遊笑覧」にそのことについて次のように述べている。
べっ甲高価にて寛保頃(一七四一-四三)細工人に上手出来て水牛の色よきにべっかうの黒斑を入て、上べつかうのまがいに賣と云れど、朝鮮べっ甲にてまがい作る事はその先よりあり。(嬉遊笑覧巻一下容儀)
文政末・天保初頃より(一八二六-三四)馬爪の櫛・笄・簪とも表を薄きべっ甲を以て包み製す。
故に甲瘍も真偽を弁じがたき迄に模造せり、この名つつみ、一名きせ、とも云也。……又嘉永中鶏卵を以て模造する者あり。其初、真偽を分ち難し。
この技術は現在では高度に発達し、その真偽をみ分けるには専門家によらなければならない程であるといわれている。
出島オランダ商館の書記として一八二〇年(文政三) に来日し、一八二九年(文政十二)までの長きにわたって勤務し、一八二二(文政五)には江戸に参府したフィッセルは一八三三年アムステルダムより出版した著書「日本風俗備考」(巻十四・華靡)の中で、日本の婦人連が当時「べっ甲」の髪用具を持ちたがることを次のように説明しているので参考までに照会すると、
婦人連は最大の見栄としてべっ甲の髪用具を持ちたがる。日本人はこれを上手に細工している。中国人たちがその材料として用いられる亀の甲を供給しているので幕府はこれを贅沢品として禁止している。べっ甲の黒い部分は値段も安い。その良質の黄色の部分を切りとって適当な大きさに加工している。このべっ甲の髪飾りはまことに純粋な黄色の琥拍のような外観を呈する。また実際それらは日本人の黒い髪には非常に魅力的に似合うものである。 (庄司三男・沼田次郎両先生の訳本より)
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