べっ甲 きき書抄
長崎のべっ甲業者系譜
---吉田喜八
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---望月常太
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--梁瀬義己---猿渡 博--猿渡弘明
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松井儀三郎---川口栄蔵--川口繁蔵- -川口洋右- -川口洋正
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|--菊池堅一--菊池藤一郎 --繁一兄弟
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| |--原 佐吉---原 靖彦
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| |--原 正則
|--亀山清太郎---亀山慶次郎
| |--束戈次郎
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|--青木長之助---松尾又蔵------土本国一
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|-- 河野ケン --松尾万吉---楠田
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| |--八木猛太
|--川口政男--川口浩二 |
|--末永八郎
大谷貞二郎---種村幸吉 (夫婦川)
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|--坂本 隆---1坂本博文
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|--柴田愛五郎---柴田 昭・政男兄弟
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|--朝長辰見(小島町)
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|--田川重一--田川順一
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|--野中安雄
森篭甲店---- 中古賀民男-----武 富
|(森家の甥) |
| |--山下 弘---山下哲司
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| |--竹森乙次郎
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| |--永池清水---永池典久
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| |--今村 栄
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| |--山口 弘
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| |--長畑 緑
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| |--岩下文吉
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| |--岩崎 巌
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| |--大園今朝男
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|--蒲池千寓太--- 蒲池敏幸
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|---蒲池康宏
池崎べっ甲--賀川荒太郎---賀川金吾---賀川正雄---賀川正信
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|--賀川武雄--山岡与三郎---山岡 等
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|--山岡嗣於
この冊子発刊にあたり昭和五八年二月十五日、筆者は左記の方々を訪ね、明治・大正年間のべっ甲屋の話やべっ甲職人さん達の系譜の話をおききした。
長老は江崎榮一氏(M三三・七・五) で次いで菊地藤一郎氏 (M三八・十二・十一生)繁一氏 (M四〇・四・二五)のご兄弟、坂本隆氏(M四一・一・七)永沼武二氏(大正三・三・二二)の各氏である。
長崎で明治以前のことはよくわからないが、江崎さんの店が明治時代一番古く店舗を構えられたとのことである。江崎店は、もとは現在の店のななめ前電車通り角であった。現在の江崎さんの店は、昔唐通事某がおられた家を購入し、表の一部を改造したものであるといわれる。外国人が江崎にべっ甲を注文するようになったのは四代清藏が俵物会所より外国人のべっ甲製品(パイプかシガレットケース?) の修理を依頼されたのが最初であったとの話であった。「それは安政開国の頃の話と思います」といわれる。五代榮造は明治十年の我が国最初の国内博覧会にべっ甲製品多数を出品しており、その出品目録は長崎県立図書館にある。長崎より他に出品者はなかったそうです。私の父六代栄造も名人といわれた人で後に県の無形文化財技術保持者に任命されました。父は勝山小学校時代、洋画家の山本森之助さんと机を並べていましたが、山本さんより絵が上手だったともきいています。(江崎氏の話より)
明治時代のべっ甲職人は弟子として店に住みこみ、手仕事としておぼえるのですから、それぞれの店の弟子さんの系統があるのです。この系譜は現在でも残っています。べっ甲細工はすべて勘による仕事ですから、自分で覚えこまねばよい作品はできません。べっ甲の歴史や製作工程などをまとめたものに渡辺庫輔さんの「長崎の鼈甲細工」 (昭二九・二刊) という三十ページたらずの小冊子がありますが、これは参考にして下さい。明治三十七・八年の日露戦争後の長崎べっ甲業界は大不況でした。それは、大得意先のロシヤが長崎に来なくなったからです。そこで長崎のべっ甲職人の人達がシンガポール方面にでかけました。そのことは前々からその方面に「べっ甲」の販路があったことと、「べっ甲」材料はその方面から輸入していたからです。中には成功した人もいました。(菊地氏兄弟の話より)
長崎の「べっ甲屋」は神戸にでまして「べっ甲」で眼鏡の枠をつくることに成功したのです。その 人達の中では大正時代の田中辰之助さんが神戸で最初にべっ甲の眼鏡枠をつくった人ときいていました。その外に黒田さん、前田さん、川口春さん兄弟、二枝べっ甲店からでられた田中正夫さん川口繁蔵さんの弟子の墨子さん、森カンジさん、川端親雄さんなどみな長崎より神戸にでて、べっ甲細工を上方に教えた人です。(坂本氏の話より)
私の父永沼義之助は藤田利吉さんにべっ甲の技術を習いました。藤田べっ甲店は天保年間からの古いべっ甲店だったそうです。赤瀬は永田某という人に習いました。永田の弟子には永田利吉(息子)がいました。利吉の弟子に福田寅三、本田浅次郎と私の父もいたのです。それで父は赤瀬と藤田利吉(旧姓永田)に習ったのです。正封勲三さんは福田寅三さんの子供で今篭町の正封に養子にゆかれたのです。私の父の弟子には伊藤辰一、道永弘幸、田代繁雄、小松三郎、福本勝巳、石熊菖雄、福本勝好、′矢野賢一、山崎正一さん達がいます、皆ほとんどが神戸にでかけられました。長崎より外人さん向けの輸出品には化粧用具といいますか、箱入りケースで大揃といいまして十二点そろいがありました。それはべっ甲製のお白粉入れ・丸鏡・櫛・靴べら・ブラシ・手かがみ・などを詰めたもので本べっ甲でつくるのもありましたが、大方は、はり甲でつくったセットが多く輸出されました。べっ甲の色は濃い色をイギリス人は好みました。(永沼氏の話より)
座談会より
江崎家の六代榮造氏は大変な名工で明治四十三年の大英博覧会にロンドンに出品された岩頭の親子獅子は特別賞を受賞されました。江崎の細工人としては榮造氏の指導をうけた人に国島甲三太(片渕町)相葉磯吉(浪の平)岩本作太郎(浪の平)田中00(田上)川内長吉(茂木)川内さんは茂木のビーチホテルを中心にべっ甲を手広く外人にも販売し、長崎にも店を出し思案橋の電車の終点に生きた亀をいれていました。弟子さんには茂木の人達が多かったのです。名前をあげますと、竹下一郎、荒木吉郎、高野治作、太田竹治、緒方武一、江川滋治、宮崎種二、山田正太郎さんなどがおられました。浜町に二枝さんがありましたね、あの二枝さんは博多の人で、博多の山崎という三味線の揆にべっ甲をつける仕事をしておられた人の弟子さんで、明治十五年頃二枝貞次郎、新次郎の兄弟で最初は浜町の裏通りで店を開かれました。貞次郎さんの子供は新三郎さんでした。新三郎さんは青貝細工を開発されたときいています。ここの弟子さん達に、本田幾雄、田中辰之助(東京に行かれた)、田中正夫、本田要造、矢野一、川端親雄、山本三太郎さんなどがおられました。山本三太郎さんの弟子に大園博之さんがおります。
本篭町の坂田専次郎のべっ甲犀も有名でした。坂田さんははじめ煙草屋だったそうですが、明治七年より外国人対手のべっ甲商をはじめたとのことです。坂田さんの店は二代仙次郎、三代榮造といいました、三代目のとき株で失敗し昭和二、三年頃店をとじました。この店の職長が松井儀三郎というべっ甲職人で名人でした。鋼座町に住っておられたと思います。
ベっ甲製品のうち高価なものは主として外人向けに輸出されるものであったので、外人が購入する東洋趣味のデザインを持った煙草ケース、三段箱化粧セット、コンパクト、ブローチ、宝石箱の類であった。実用的なものとしてはカウス釦、洋服釦、眼鏡緑、ステッキ、靴ベラ、明治大正時代は帽子ピン並びに飾、バックル、扇子、爪ヤスリなど。
美術工芸品としてのべっ甲細工には、額橡・置物(鯉・動物・軍艦・文庫箱・島篭・各種盆・アルバム・花瓶・時計) などがありました。
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