番組冒頭のオープニングのテーマ音楽に合わせてわたくしの拙い文章が紹介されることが何度もありました。悩んでいることをお手紙に綴ったときには必ず放送のなかで雑談に織り交ぜて自分の意見を語ってくださるようになりました。「暖簾とは…?」 ということを深く考えていたとき 永さんは20分ほどかけて暖簾についてのお話をしてくださいました。「寒い冬の夜に凍えながら暗い道を歩いている。遠くに灯りが見える。近づいていくとそれは小さな屋台の提灯だった。その屋台の暖簾をくぐって椅子に座る。そばを注文する。屋台の主人が一杯のかけそばをつくってくれた。そばを食べているうちに凍りつくほど冷たかった体が温まってくる。それでものれんという布切れ一枚向こうの外は寒い。のれんの内側は暖かい。そしてその事が何よりも嬉しい。だから人は暖かい簾(すだれ)と書いて暖簾と読んでいると思うのです。店舗にはすべて暖簾がかかっていなければいけない。目に見える暖簾でなくてもいい。暖簾がかかっていなくてもそのお店の主人がお客様の心が暖かくなるような商品を販売することで暖簾がかかっていることになるのではないか。僕はいつもそう思うんです。だからそういうお店を見つけたら嬉しくなるんです。お店のあり方について悩んでいる方がもしこの放送を聞いてくれていたら このことを思い出してほしい。この番組を聞いてくれているリスナーのなかで暖簾に生きている方といえば…」 アシスタントの雨宮塔子さんが 「長崎のべっ甲の川口さん で いまの話 川口さんのことを頭に浮かべて仰ってたでしょう」  「そんなことないよ。この放送を聞いてくださっているたくさんの方のなかに川口さんと同じ立場の方がいらっしゃるだろうと思いながら僕の意見を話したんです」 というかんじでした。長崎や東京での永さんのトークショーへ足を運んだ際にも 疑問に思うことをお手紙でお送りすると トークショーのなかでそのことについての話題を振ってくださいました。他の聴衆の方々にはおもしろおかしいいい話として受け留められていたと思います。講演のあとにロビーの出口に置いてある大きな募金箱の横に立っていらした永さんとすれ違うとき 会釈をして会話は交わしませんでした。永さんはわたくしの肩をぽんと叩いて会釈を返してくださいました。楽屋を訪ねるなどという野暮なこともなく さほど会話を交わすでもなく 大量のおはがきのやり取りのなかで数年が経ちました。
1995年11月.江戸東京博物館で行われた民謡を応援する会にお邪魔したとき 音楽会のあと ロビーで内海好江さんと永さんと3人で立ち話をしました。漫才師の内海好江さんは前々日の夜にご主人の実家がある長崎に帰省してわたくしのお店にいらして櫛笄をじっくりご覧になって 「高価なものを買うときには主人と一緒でないといけないからあらためて伺います」 という会話を交わしていました。その内海さんと2日後に東京で再会 「永さんのお知り合いとは知らなかった人と2日後に永さんを交えて会うなんて。こんなことってあるんだ」 と妙に盛り上がりました。それがきっかけで永さんと親しくお話をするという距離のお付き合いがはじまりました。お話をするとき 永さんはわたくしが想像していない言葉を投げかけて うろたえるわたくしの姿を見て高笑い というかたちで徐々に会話の内容が濃くなっていきました。

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