NBCラジオの永さんの番組 「誰かとどこかで」 のスポンサーが番組を降りることになりました。番組はほとんど誰も聞いていない朝5時からの放送になりました。「永さんのお話はほのぼのとしていて心地よい。そういう番組が長崎の人達の耳にほとんど届かないというのは忍びない」 ということで 「経営は楽ではないけれど月に20万円ぐらいの広告費は出せる。それくらいだったら永さんと遊べる。長崎の人達に老舗と呼んでいただけるようになるためにはこういう一見無駄な文化的なサービスを提供する遊び心が必要。売上アップにはまったくつながらないけれど まぁ いいか」 ということでスポンサーになりました。しかしそれから程なくして三菱銀行との関係が悪化して浜町のお店を閉めることになりました。1978年の秋 わたくしが大学受験に失敗して福岡で浪人していた頃にフォークシンガーの高石ともやさんがラジオ番組のなかで仰っていた  「一流の人間は一流の遊びができる。一流の遊びができない人間はどんなにお仕事を頑張っても一流の域に達することはできない」 という言葉を思い出し 「約束は約束だから続けられる間はスポンサーを続ける」 ということにいたしました。
永さんに一部始終を綴ったお手紙を出しました。封書のお返事が届きました。封書の裏には自宅の住所と電話番号を記した印鑑が押してありました。「僕にできることがあれば何でもするから言ってくれ。でも 僕は話をすることしかできない…。スポンサー 無理しないで降りてほしい。約束は守らなくてもいい。」 という主旨でした。
浜町のお店を閉めて それこそ長崎の人達から敗北者として蔑まれていた最中 八方塞がりの四面楚歌状態だったとき 「川口が潰れたのは商品が悪いからではない 川口が馬鹿だったから。商品に責任はない」 とNHKを含めてあちこちで吠えてくださり 著書や新聞のエッセイに書いてくださいました。まさか 閉店してから 逆風のなか 精力的に広報部長をやっていただけるようになるとは思っていませんでした。そして 「1日 身体を空けて 長崎に行く。僕の1日を君の自由に使ってほしい。新聞テレビラジオ雑誌講演 分刻みのスケジュールでいいから僕を使ってほしい。それが僕の君への気持だから」 という連絡がはいりました。

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