4ヶ月後 永さんの奥様が癌で亡くなられたことが報道で流れました。病院ではなくて自宅で家族による完全看護だったというエピソードが付け加えられていました。東京のべっ甲関係者に 「川口はまだしぶとく生きています。もう少し体力が回復したらべっ甲のお仕事をはじめますのでこれまで同様よろしくお願いします」 という挨拶をするために上京しました。橋本さんと夕食をご一緒しました。「永さん 奥様を亡くして もう見てられない。 倒れるくらい仕事を入れて忘れようとしている。実は永さんの周りのスタッフはみんな奥様の病気のことは何も知らなかった。永さんは完璧に情報を遮断していて毎週会っていてまったく気づかなかった。我々も報道ではじめて知った。それでスタッフみんなで原宿の自宅へお線香をあげに行った。 でも 永さん 川口にはほんとうのことを漏らしていたんだ。永さんと川口には第三者が入れないものがあったからなぁ。 お願いがある。 永さんは川口の言葉は心の中にはいっていくと思う。 永さんに元気を出すように手紙を書いてほしい。 僕の言葉はいまの永さんの心には響かないから。 これは僕からのお願いだ」 「たいへんなことになった。自分が倒れたことを綴った手紙を出したとき 永さんの奥様は癌で余命宣告を受けていた。だから 長く生きてくれ という返事だった。 そして何があっても病気とは喧嘩をするな それは永さんの どこかで聞いた言葉を面白おかしくお話する受け売りの言葉ではなかった。 絞り出すような 魂の一言だった。 深く考えればわかりそうなものなのに何も気づかなかった。家族のなかに一人病人がいて 永さんのお母様のことだと思っていた。 こんな自分が永さんに語りかける言葉なんて持ち合わせているわけがない」 1ヶ月 悩みました。何一つ 言葉が浮かんできませんでした。わたくしの母に相談しました。わたくしの父は37歳で病死していました。母は32歳でした。 「ときぐすり といってね。配偶者を亡くした悲しみを癒やすものは何もない。誰の言葉もはいっていかない それでも 唯一の薬は時間 時間が経てば悲しみや寂しさは癒えてくる。ときぐすりしかない。 だから いまは悲しみのなかで生きていくしかない. この寂しさは経験したものでないとわからないから」 と言われました。そのままの言葉を永さんに送りました。「君が僕のことを思ってくれていること 嬉しかった 長崎でお目にかかったご母堂様の言葉 感謝します。大丈夫です。元気になります」 という内容のお手紙をいただきました。
永さんは答を絶対に提示してくれません。困っている人に手は差し伸べますが相手の手を握って引き上げることはしません。病気と喧嘩をするな という言葉の真意を尋ねるわけにはいきません。それをしてしまったとき 永さんとの関係は終わってしまいます。
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