1999年7月 東京銀座で永さんから厳しい表情で言われたことがありました。 「川口さんは川口鼈甲店という名前を後世に遺したいのか。べっ甲の美しさを遺したいのか。君が前者だったら僕は失望する。自分は誰に何を遺したいのか そのことをあやふやにしてはいけない。 僕が詩を書いた唄 あの唄の作詞者は永六輔 というかたちで歌い継がれることを良しとしない。誰がつくった歌詞なのかわからない というところで歌い継いてもらえたらとても嬉しい。そういう広い視点で自分の仕事を見ることができる人間でいてほしい…」
2017年7月 TBSラジオ主催の 「夢であいましょう〜 永六輔さんのうわさ話」 という黒柳徹子さん.ピーコさん.さだまさしさんによるトークショーのなかで 永麻理さんが「父 永六輔のことをみなさんにずっと覚えていてほしいから ホームページをつくりました。よかったら皆さん見てください」 と仰っていました。「はしたなくて下品であるという理由で永さんがいちばん嫌っていたことをお嬢さんが平然とやっている」 と思いました。とても寂しい気持ちになりました。 以後 永さんのご家族が発信する永さんの情報は意識的にすべて遮断しています。
これが永さんとわたくしのすべてです。「病気と喧嘩をするな」 という言葉は永さんが68歳のときに発したもの。長崎に会いに来てくださったときは64歳 永さんとの初対面のときは58歳でした。 初対面のときわたくしは32歳でした。
そして 今年 わたくしは還暦です。 永さんと出会ったときの永さんの年齢を超えました。病気と喧嘩をするなという哲学の真意はわからないままです。わたくしが68歳を超えたとき その深い意味が見えてくるような気がしています。
永さんの御命日である昨年の七夕の夜 今年の七夕の夜 盃を2つ並べて永さんを思いお酒を呑みました。創業者である曽祖父の命日.祖父母の命日.父の命日 その次に大切な命日 そういう位置付けになっています。You Tubeで永さんの講演会を見ました。こんな天才とたとえ一瞬であっても同じ時間を過ごせたことに感謝しなければ と強く感じました。

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