玳瑁技法の歴史
タイマイの文字については一般に玳瑁の文字を使用しているが、従来正倉院では?瑁の文字が使用されている旨関根先生より連絡があった。
我が国に玳瑁の技法が伝えられた時期については不詳であるが一九九〇年七月六日発刊のアサヒグラフに奈良県桜井市上之宮遺跡の発掘品の中にべッコウがあったと報ぜられ、その写真ものせてあった。それによると同遺跡については次のように記してあった。
この遺跡は七世紀後半に飛鳥に宮殿が築かれる以前に、磯城盤余(しきいわれ-現在の桜井市…の一部) の地に営まれた宮殿遺構の一つにあてはまる。また、この遺跡が中小豪族クラスの邸宅ではなく公的性質をそなえた宮殿クラスのものである可能性を裏付けている。
そして、更にその遺構の中にあった井戸より次のものが出土したと記してある。
塗銀・「刀+口」などの文字のみえる木簡や、当時としては超貴重品であったベッコウ、宗教行事に使った琴の部分である琴柱などがこの井戸から出土している。
叉、同誌には写真がそえられ次のような説明がくわえられている。
ベッコウ。遺跡からの出土は初めて。タイマイとみられ細工のあとがうかがえる。
私はまだ、この遺跡の正式な学会報告書はみていないし、現物も見ていないので断言はできないが現在のところ我が国の古代遺跡より出土した最初のタイマイの遺品と考えてよいのではなかろうか。すると我が国にタイマイが伝えられた時期も七世紀の前半と考えてよいのではなかろうか.
然し、そのタイマイが中国大陸から直接もたらされたものであるか、朝鮮経由でもたらされたものであるかということについては不詳である。
朝鮮のタイマイについては、BC一〇八年前漢が半島に設置した楽浪郡の遺品・平壌府出土彩画玳瑁残次があるという。朝鮮にもタイマイ(亀)は我が国と同様生息していないので、中国大陸より持たらされたものであろう。
タイマイが中国のいつ時代より装飾品として使用されるようになったということについては不詳であるが前漢時代すでに用いられていたであろうと、従来ギリシャのエルトランタ案内記を引用して説明されている。
タイマイ (亀) はどのような処を生息地としていたのかということを記した中国の古書 「歳器」 には次のように記している。
嶺南の海畔、山水の間に生れ、大きさ扇の如し、亀甲に似て中に文あり(原漢文)
嶺南というのは中国広東・広西地方を指している。また、虚衡志には次のように記してある。
玳瑁は海洋の深き処に生ず、かたち、亀鼈の如し、而して殻やや長し、背に甲十二片あり黒白の班文あり、まじわりて其幇辺(ふち)かけて鋸歯の如し、足なくして而四ひれあり。前は長く後は短なり。鱗に班文あり甲の如し。海人、養うに塩水を以てす。飼うに小魚を以てす(原漢文)
タイマイはウミガメの一種で北緯10度、南緯10度の間のサンゴ礁の発達したところに最もよく生息し大別して次の三地域が生息地とされている。
1、南太平洋・南支那海
インドネシア、マレーシア、フィリピン、カプリコーン海峡、フィジー島周辺など。
2、インド洋
ケニヤ、タンザニヤ、マレー半島、セイロン島など。
3、カリブ海
キューバ.ケンマン諸島など。
これよりみてもタイマイは中国大陸周辺には生息していなかったので、古代より南海の商人の手を経てタイマイは中国大陸に輸入されていたことがわかる。
古代朝鮮のタイマイは中国より持ち渡られたとすれば、我が国古墳時代にあったタイマイは直接中国から舶載されたものでなく朝鮮経由で我が国に持ち渡られたものであると考えたい。
そして、それはタイマイの原料が持ち渡られ我が国で加工したものでなく、製品として形成されたものが持ち渡られたと思う。
例えば前記上之宮遺跡出土の遺品の中のタイマイは正倉院に現存するタイマイ加工品から考え、且つ出土した琴柱から考えて楽器の装飾の部分か厘の装飾の部分に使用されていたタイマイであったかもしれないと考えてみた。
正倉院の宝物の中には後述するように多くのタイマイを琴の装飾品として使用しているものがあるが、その中に南倉九八に桧和琴、南一七七に箏残欠、南の一七八器物残材の中一、七、四一、五〇、五一函三三ー一、函六七ー四、中倉の二〇二、七一号橿中より約四〇片などが登載されている。
これらタイマイは、亀の原材料に加工を加えタイマイ製品として仕上げられたものである。タイマイ製品を仕上げるまでには後述するように相当の技術を要するので、古墳時代に発見されたタイマイについては、当時すでにある程度の材料が南方海域又は中国より輸入され、その技術も朝鮮半島より来航していなければ、我が国でタイマイの加工技術を駆使し製品化することば困難であったと考えるので、今回出土し一般に中国でタイマイのことが知られるようになったのは漢代のこととしている。
た古墳時代のタイマイについては請来品であったと考えている。
又、一般に引用する文献としては「史記」 の貨殖伝の中に玳瑁の産地として江南と番禺の名があげてあるところより、当時すでにタイマイが使用されていたことがわかるとされている。
また後漢書の桓帝延熹四年(AD一六一) のとき大秦の王安敦が象牙、犀角、玳瑁を献じたとの記事がある。大秦とは白南郡にあり、現在のベトナムの地であるとされている。
九州大学の岡崎敬先生の論考によると前記朝鮮の楽浪郡官吏の墳墓王肝墓よりタイマイ製の笄、かんざし・指輪をはめた主人と婦人が槨に葬されており、また側槨よりはタイマイを貼った小厘が見出されたと報告されている。
厘にタイマイを張るという技法はタイマイの工芸史上注意すべきことであり、唐時代にはこの技法は大いに利用され各種の工芸品の上にあらわれているし、その影響の下にあった正倉院の工芸品の中にもタイマイを張った工芸品を多くみることができる。
タイマイ張りのこの小厘の技法について原田淑人博士は次のように説明されている。
蓋に於ては薄きタイマイ板を突合のままとし外部より継目に黒漆を塗りかためている。身は極めて薄い桜様の樹皮を以て作り、内面には朱漆を?り、外面に二枚からなるタイマイの薄板を折り回して貼っている。
面も各タイマイ板には内部の面に黒漆にて図紋を書き外面よりこれを透視する仕組をなしている。
私はこの後段に記してある「外面より透視して」物を見せる技法に注目した。この技法は唐代 になって盛んに行われ、現存する正倉院の宝物の中にもタイマイをつかって透視させるという工芸品を数多くみることができるからである。
然し、この透視させる材料が全てタイマイのみであるかというと、そうではなく、馬爪を加工して薄い坂をつくり、それによって透視させたり、犀角によっても、これを透視させる材料としている。またこれら以外のもので透視させているものもあるが現在その材質を全て判然とすることはできないという。
私はここで、物を透視させる工芸はタイマイの加工技術として開発されたものであるか、タイマイの技術が中国に導入される以前より、何か貝などを使ってなされる透視という技術が既に中国にあり、漠時代になったとき、タイマイの輸入が南方ベトナム方面からなされたので、タイマイを使用して透視するという工芸が中国でつくられるようになったと考えてみた。
タイマイを使用しての透視技術の発生時期については判然としないが、当時すでにガラスの工芸は中近東では開発されており、ガラス工芸と透視の美学と併せて考えることはできないだろうか。兎も角、タイマイが中国に輸入される以前から透視する技法が既に中国にあったか、又この透視の技法はガラスの技法と共に中国に伝えられたか判然としないものがある。
然し、タイマイは本来透視の材料としてつくられたものではないと私は考えている。漠時代の末、唐時代になったときタイマイは透視の材料として活用されるようになったのではなかろうか。
漢時代のタイマイは髪用具のクシ、コウガイまたは指輪ができているが、それは本来木製または竹製・金属性のものであったものが、タイマイという新材料が南方より導入されたとき、タイマイで製作されるようになったと考える。南方におけるタイマイの製品はおそらく髪用具を主にした製品であり、タイマイが中国に導入された当時はクシ、コウガイの製品として、またはその製作材料として舶載されたものと考える。
更に漢時代のタイマイ製品としてタイマイの環、佩が朝鮮楽浪郡貞柏里・石巌里の古墳より出土したことが報告されている。このことはタイマイの製品が漠時代には既に朝鮮に普及し、タイマイは流行の品として各方面の装飾品に使用されていたことを示している。
タイマイの加工技術はタイマイの生息する地域で先ず開発されたのであろうが、初期のものはタイマイ亀の甲に熟を加え加工することなく、その甲より直接細工していたと考える。
タイマイの肉は他の亀類より美味でなく、タイマイの捕獲はその甲をとるためのものであったと考えられているが本来は食用としてタイマイを捕えていたものが美術加工品の材料となることより食用亀というよりは工芸品の材料として捕え、その肉は食用とするようになったと考える。
タイマイの甲の加工の技術が開発された時期については不詳であるが、BC二〜三と言われている。そしてタイマイの生息地は前述のようにベトナム方面のみでなく、広くインド洋沿岸、アフリカ東岸、紅海西岸でも紀元前後にはタイマイを捕獲していたというのでタイマイの加工技術の開発という問題はその方面の文化と共に考えねばならぬし、当然古代ギリシャ、ローマ、ガンダーラの工芸品の中にもタイマイは使用されていたと考えねばならぬことである。
唐時代になったとき中国におけるタイマイの工芸は大いに発展している。それはタイマイの持 つ黒と黄の模様のとり合わせの面白さ、透視性のあること、比較的に細工が容易であることなどが考えられる。
唐時代タイマイでつくられた工芸品としては次のようなものが考えられる。
玳瑁筵 タイマイの工芸品で飾られたむしろ。
玳瑁笛 タイマイ細工の笛。
玳瑁梁 タイマイのまだら模様で装飾してある梁。
玳瑁簪 タイマイでつくった「かんざし」。
玳瑁梳 タイマイでつくった「くし」。
玳瑁状 タイマイでつくった寝台。
以上諸橋大漢和辞典より
この他、私は台湾故宮博物館の展示品の中に清朝文房具飾が展示してあったが、その中に筆の軸がタイマイ製品であった。我が国でもタイマイ細工は江戸時代になると多くの面に活用されているがタイマイによる透視の技術を活用したものは殆んどなく、黄と黒の模様をのみとり入れたものが多い。
何故そのタイマイによる透視の技術が江戸時代になってもちいられなくなったかということば一つにはガラスまたはガラス絵の普及ということもあって、時代的好みに合わなかったのではなかろうか。
タイマイによる透視の技術を再び活用するようになったのは明治時代になってからである。透視の技術の開発には先ずタイマイの甲で薄い透明の板をつくらなければならない。
そして、それをあらかじめ描いておいた細工物の上に貼りつける技術と、直接そのタイマイの薄板の裏がわより花鳥や山水を描き、その絵具がおちないように地塗りし、これを素材の上に貼りつけるものがある。
先頭のページ 前のページ 次のページ >|