江戸時代のべっ甲 (タイマイ)


江戸時代になるとタイマイという言葉は一般に使用されることなく、殆んどベッ甲という言葉を使用している。
江戸時代、ベッ甲の製品について文献に残っているものを探すと出島オランダ・カピタン(商館長)が徳川将軍に献上した品物の中である。
そのオランダ商館長の献上品の中に最初にべッ甲製品があらわれてくるのは万治二年(一六五九)二月二十八日オランダ人献上品二十一品の中に次のように記してある。
一、ウニカウル一本。一、ベンガラ牛 二匹。
但車道異付……一、ペっこう火燈 三つ。次いで寛文五年(一六五五〕献上十五品之内にびいどろ大鏡一面。同盃 十二。……鼈甲火ともし 二つ。
寛文十一年辛亥〔一六七一)六月十七日 献上の鼈甲燈籠等六種を日光山御堂に備へらる。
寛文十一年亥年六月十七日 鼈甲の燈籠二つ、岩着の珊瑚樹 二枝。……日光御堂へ被献、目付
甲斐庄喜右衛門持参。
延宝八庚申年(一六八〇〕三月三日、献上二十一品之内、大卓 二つ。唐銅獅子香炉 二つ……鼈甲燈籠 二つ。丁子油一箱但ふらすこ二十八人     〔以上通航一覧 巷之二四二〕
これ以後、ぺブコウの献上品が記載されていない。これは寛文八年の禁令に唐蘭船に対して後述のように持ち渡りを禁じたからである。それは貿易品の騰貴抑制のため幕府の処置であった。
通航一覧一五四巷にオランダよりの輸入品について次のように記している。
阿蘭陀国より商売持来申侯品々
一、しやうじやうひ。一、大羅しゃ……一、びいどろ道具。一、朱砂。一、とけい……1、ペっこかふ……
右之内
一、二こはく。一、阿蘭陀唐皮。一、へいたらばさる。一、ベッカウ。一、血竭。一、阿蘭陀はがね。
右之分、日本下直に御座候故、持渡不申候由申候。
一、すためんと。一、へるへとわん。一、へるさい。一、さんごじゆ。一、磁石針。……一、作り物色々。一、うき玉。一、金から皮。一、びいどろ道具。
右之品。酉之翌年より御停止持渡り不申候。
按ずるに、前の諸記に載ることく、これらの品を禁ぜられしは寛文八年戊申なれば、酉とあるは恐らくは末の誤りなるべし。
この中に「作り物色々」とあるがその中にべっ甲が含まれていることは同書一五五巻に「寛文八戊申年(一六六八)三月八日御味之上 唐船より日本へ持渡候品々御停止被仰付候の品目として、
一、作り物 但鼈甲、角類、燈物、人形、匂袋、花類
とあるからであり、また同様のことが同書「縦阿蘭陀国持渡候内御停止物之覚」 の中にも一、器物井物類として記してある。
然し薬種として使用するタイマイについては持渡りが許されていた。それは「玳瑁亀図説」に次のように言っているからである。
御公儀奥医師方 玳瑁甲爪御望之方は願済の上 毎年十二斤又は五斤七斤宛御願請相成其荷物は長崎会所にて御調達と唱る甲爪有之其内の御差向に相成由、江戸着之節鼈甲屋御呼被成 毎三四月之頃賣拂に相成 但右願請無之年も有之と相見 御拂爪不出専有り、如此御拂に相成薬品には御用ひ無之由也
ただしここに記す長崎会所は元禄十一年(一六九八)の創立であり、それ以前は割符会所と称していた。すると上記文書は元禄十一年以後のものと考える。また江戸に専門の鼈甲屋ができたのは享保年間以後(一七二六〜)のことであるとしている。然し鼈甲が薬種として使っていたのであるから寛文八年の禁止令のときに「作り物」のべっ甲は禁止されても薬種としてのべっ甲の持ち渡りは許されていたと考える。
また、長崎県立図書館所蔵の「薬種荒物生類渡来年代明細帳」 (渡辺文庫)には次のように記してある。但し 「唐方」と記してある。
一、屑鼈甲 宝永六丑年、正徳五末年、享保六丑年、享保八卯年。享保九辰年、享保十巳年、天明二寅年、天明
三卯年、天明六年持渡其後持渡不申侯。
一、鼈甲 元禄八亥年、宝永三戊年、宝永五子年、宝永六巳年、宝永八卯年、宝永九辰年、宝永十巳年。
寛保元酉年より 宝暦十辰年迄
明和元申年より 寛政三亥年迄持渡其後持渡不申候。
一、鼈甲爪 宝歴十辰年、明和三戊年、明和四亥年、明和五子年、明和七寅年、明和八卯年、天明七末年、寛政
三亥年持渡、其後持渡不申候。
一、薬鼈甲 寛政六寅年持渡、其後持渡不申候
上述のようにべっ甲は寛文八年輸入禁止になったが元禄十年(一六九七)長崎の唐蘭船の貿易は好況に向い長崎奉行所の収益はこの年四寓五千両となり、その内一万兩を長崎へ配分、三万五千両を幕府に納め、貿易額を追加し唐船六、000貫目蘭船三、000貫目、他に銅による代物替五、000貫目、俵物、雑色(いりこ、乾あわび、するめ、海草)による代物一、000貫目を決定し、唐蘭船の銅の輸出は八九、六〇〇、〇二三斤となった。そして入港唐船は元禄二年(一六八九)以来定数となっていた七〇艘、蘭船六艘、この他に入港した唐船三十三艘があり定数外の入港として積房となっている。この好況を反映し長崎奉行所は貿易品目の増加を計っている。
元禄十年丑八月廿三日
丹羽遠江守様 諏訪下総守(註・長崎奉行)御立会之節 於西御屋敷 以前之通持渡次第商賣可仕旨 御放免之御書出 年番町年寄後藤庄左衛門方え御渡被成候 (通航一覧巻之一五五)
唐通事会所日録五、元禄十年八月二十二日の條には次のように記してある。
  覚
唐船より持渡之小道具前之通商賣可仕候
但 生類・貝類其他無益之品物可爲無用事
唐船江前々より者酒多賣渡候之様可致事
長崎之儀者異国との出合候之間、諸事入念譯宜敷様可仕事
 以上 八月
正徳元年(一七一一)唐船舶載品目数畳表(山脇悌次郎先生長崎の唐人貿易)によると
べっかう   一、九四九斤
肩べっかう 二八、四三〇斤
牛角     三、六五六本
内訳
べっかう櫛  一三五本
(註1)べっかう櫛形五五六本
水牛 櫛形     五本
角  櫛形   一〇〇本
(註2)べっかう髪指 八〇本
べっかう髪指形
(註3)べっ甲(つめ) 一
註については同書によった。
?べっこう櫛形は「くし」の形をした中間品(仕上げ品でない)である。価が安く、また好みの文様を入れる
 ために中間品で輸入した。
?べっかう髪指は「かんざし」べっかう髪指形は、素材がべっかうで一応かんざしの形をした中間品。
べっ甲の輸入が本格的になったのは、前出の「薬種荒物」によれば、元禄十年以前、元禄八年にすでに輸入されている。このとき輸入されたべっ甲は薬用としてのものであったと解される。
べっかう甲、(甲はツメ)、琴を弾くに用いる琴爪を作る。
然し、つめ甲については、玳瑁亀図説に次のように記してある。琴を弾くに用いる琴爪のみではない。
玳瑁縁甲の白身を取りて跡の黒き処を爪裏と云ふ。其の性総て片肉なり。大爪の裏厚く價宜し、中爪の裏之れに次ぐ……
爪裏と云ふは玳瑁亀背面添へ縁甲の黒身なり
又同書には爪細工の記があり詳しく述べてある。
爪細工の記
玳瑁爪細工の祖、万屋久助殿、乙川屋十兵衛殿。天明二寅年、爪四斗樽に詰め、大坂より唐木屋七兵衛殿方へ送り来る由、江戸にて未だ用ひる事を知らず。右久助殿始めて詰めを以て櫛に作る。夫より追々笄簪等に作ると聞き博ふ。此の頃爪ひらくには、熟箸を以て爪の曲を直し、鋸にて筋を挽き分る由(未だ突伐刀之れ無き故)
○大爪、中爪は黒黄表裏に分る故、先ず砂摺りを削り去り、濕りたる布に包み、熟鉄箸に挟み温め、突伐刀を以て、爪の表身、中身の間の筋を目當てに、表身を取り放つ、夫より表、裏の間の 中身を取り放つ。
中身は表身より却って性合宜しき物なり。爪全し、表、中、裏、三枚に相成る。○中爪、小爪、櫛向の爪には、中身之れ無し。唯だ筋を突き放つ。筋も之れ無き物は、黒白の宜しき様、鋸にても伐り分け、稀に中身之れ有りと讃ふ。薄少なり。此くの如くなるを爪を開くと云ふ。白身箸を以て押潔を、後、貨に作る。細工に至りては甲と異なる無し。唯班抜之れ無きのみ。
○先年の爪貨多く筋を去らず拵へる故、筋影現はし甚だ見苦し。品柄下品にて價も甲爪の差別有り。其の後次第に細工熟し、天保初年の頃に至りては上手に相成り、悉く爪筋井せて悪敷きところを去るを拵へる故に、貨奇麗に仕立て、真に甲貨と聊かも違ふこと無し。勿論、貨、甲爪ともに、上中下の品之れ有りと謂ふ。價に至らば.甲爪貨の差別無し。取り扱ひ之れに依り.追々爪流布仕り、爪の性、自身片寄り在る故、職人弁利宜し。手早く拵へ成る。又毎年爪舶來も多く、専ら之れを用ふ。但し甲には細密の斑抜有り。細工甚だ入り組む故、爪手馴れ職人、甲を更に用ひず。尤も持ち渡りも少し。之れに依り甲近來自然と用ひ方疎し。然しと謂へども最上の甲を以て、貨作りたる物には如くは無し、實に玳瑁の頂上と為す。
玳瑁爪來着の記
唐方より舶來は甲と同じ。大坂より當地へ、始めて來着は、天明二歳の頃。江戸十軒店、唐木屋七兵衛殿方へ始めて大爪着す。夫より追々細工に用ひることを知りて、櫛・笄・簪等に作る。其の後は甲爪両品.舶來に依りて、打交へて細工に用ひる。是れ?當地にて爪用ひることは勿論知らず。上方筋も同様と相見え、先年甲箱詰にて來る節、箱の内、藁の替(代)りに詰め込み致し來る由、聞傅ふ之れに依るか。一説に詰甲と云ふ。音を仮りて爪甲と云ふとかや。然りと謂ふも字儀には當らず。実は縁甲にて然るべきことなり。
同御走直段
大爪一斤、代銀二百三拾目。中爪一斤、代銀百八拾目。小爪一斤、代銀九拾六目五分。此くの如き三通りにて御定直段を以て、御交易、御買ひ上げに相成る由なり。
同荷作の記
爪一箱三斤二三合入より三斤五合人位まで。先年五斤七斤入も之れ有り。荷作りは伐爪・櫛爪、折交るの箱多し。亦伐爪ばかりの物有り、
櫛爪ばかりの箱も有り。箱表書は、爪大中小に抱はらず、皆大爪と銘す。
べっ甲が本格的に我が国に輸入される時期は元禄十年(一六九七)以降となる。長崎実録大成第9巻 阿蘭陀船入港並雑事之事に次のように記してある。
今年より大針口に諸糸、薬種、?、鼈甲等掛ケ渡
通航一覧百五十五 享保十四年巳酉年(一七二九)七月二日「紅毛船長崎元入津 船積の覚」には次のように記してある。
一、鼈甲 三百三十斤
同十五庚午(一五三〇)入津 阿蘭陀船荷物覚
一、鼈甲 五百九斤
などとベッ甲輸入の記事を多くみかける。
世説海談には享保十四年に輸入された亀のことを次のように記している。これはベッ甲でなくウミガメであろうか。
享保十四年 今度長崎之阿蘭陀船二艘入津荷物之事
一、亀 胴三間三尺 高さ八尺 廻り厚さ二尺余
また、玳瑁亀図説に次のように記している。
○明和年中蘭船持渡る諸品の内、玳瑁甲、一万三千斤舶来せり。亦壱蔦壹貮千斤、平年七八千斤より少きこと之れ無。
天明元辛丑年(一七八一)阿蘭陀船一艘に積人中候荷物如左
一、べっかう 二千四百七十一ポンド
享保元年(一七一六)長崎奉行職を勤めた大岡備前守は幕命により「崎陽群談」を編しているが、その第九和蘭人往来之所に「同産物・外国航路遠近」の中に次のように記している。
一、オランダ国 合七協 土産 狸々緋、大羅紗……鼈甲
一、スマアエラ 但嶋 土産、金、イワウ、ヘイダラハサル、コセウ、トウ、アンダゴザ、鼈甲
此国え阿蘭陀人商賣に相越候
また同書第八「中華省府県等之大概井西洋之港」のうち広東省十五省中に次のように記してある。
瓊州 土産 椰子、浜椰子、沈香、烏木、花梨木、車渠、玳瑁
また明和四年(一七六七)田辺茂啓編の 「長崎実録大成第八巻」交易往来之諸処里敷産物之事の中に次のように記してある。
スマアタラ 金、玳瑁、バザル、胡椒、藤、硫黄
渡辺庫輔先生の 「長崎の亀甲細工」 の中に次のように記してある。
寛政六年より以降文化元年までの約十年間の 「べっ甲」持ち渡りについては不明である。
文化二丑年(一八〇五)薬種目利渡辺同博筆になる肥田豊後守様御在勤 諸役場勤方書中御献 
上井御進之品詞子に
玳瑁類(タイマイ)
右唐方は直段相済候後不残会所請込 御役所え持出候を於御用場撰取申侯
玳瑁亀図説にべッ甲の持ち渡りについて安永年間(一七二二〜一七八〇)以後はオランダは玳瑁の持ち渡ることを止め唐船持ち渡りになったと記している。
○安永歳中末の頃より玳瑁の甲蘭船より持渡り無之 其の故を知らず。
然し寛政二年の犯科帳によると次の記載がある。
平戸町 欠落立帰 甚吉
酉正月晦日入牢 戊二月十三日五島え遠嶋 右之者同類申合密買相企湊唐船え乗付銭四指貫文相渡砂糖五俵請取賣払徳用取之 猶 又沖紅毛船え金子七拾両弐歩持越 紅毛人え相渡鼈甲 竜脳 広東人参等請卸 露顕を恐れ欠落致し吟味相遁 其後立帰候始末 重々不届之至二付遠嶋申付候。
一類の者として。出来鍛冶屋町儀兵衛(入墨百敲重追放。銅産跡 善兵衛(五島え遠鴫)之出来鍛冶屋町 次左衛門弥右衛門(五島え遠嶋)
これによって知られることは、寛政元年正月に甚吉は立帰入牢となっているので紅毛船がべっ甲を積み渡ってきたのは寛政元年まで紅毛船がべっ甲を積み渡っていたことがわかる。
また、寛政の犯科帳には次の記載がある。
銀屋町 紅粉屋清助
戊十月十三日入牢 同十二月二十五日 過料銭拾貫文取上居町払
右之者唐物賣買之儀に付ては追々御触も有之処 不正之品と存なから広東人参山帰来鼈甲等武平次より賣口被頼 藤藏え賣払或は預ケ置口銭拾四貫文取之遺拾 殊に武平次致欠落上は申ロ難取用 不届こ付 過料拾貫文取上之居町払申付候。
武平次は欠落して捕まらなかったようである。このべっ甲を清助より購入した藤蔵は同十二月二十五日長崎払となっている。
ここにべっ甲を唐物売買としてある。このあたりよりべっ甲が唐船積み渡りとなったのではなかろうか。
この他、長崎犯科帳をみてゆくとべっ甲に関する密貿易のことが多く読まれる。
然し、べっ甲はオランダ船のみに積み渡られたのものでないことば、例えば宝歴元年(一五七一)の犯科帳には唐人屋敷出入の野菜屋西古川町藤右衛門が三宮と申す唐人より、野菜代金のかわりとして鼈甲櫛形四枚を無断持出し、入墨追放になっているし、同年唐人屋敷出入の遊女が鼈甲の櫛を持ち出し発覚している。
然し、これはごく例外であり唐人関係のべっ甲密売事件が多くあらわれてくるのは享保(一八〇二)年間以後のことである。
べっ甲が一般に用いられるようになったのは前述のように元禄十年、べっ甲の再輸入が許されるようになり、次第にべっ甲の櫛が普及した享保年間(一七一六)からであったと考える。
天明三年(一七八三)長崎唐人屋敷で殺した中国銭塘の人汪鵬はその著袖海編に次のように記している。
(丸山)遊女は化粧も上手で美しい顔にみごとな衣裳をつけている。そしてタイマイの櫛をたっとぶ。一つで百兩あまりするものがある。その故にそこには当然べっ甲にかわるものがつくられるようになった。
天保元年(一八三〇)喜多村信節が編纂した「嬉遊笑覧」巻一、容儀には次のように記している。
べっ甲高価にて寛保頃(一七四一〜四三)細工人上手出来て水牛の色よきべっかうの黒斑を人て上べっかうのまがいに賣と云れど、朝鮮べっ甲にてまがい作る事はその先よりあり……文政末・天保初頃(一八二六〜三四)より馬爪の櫛・笄・簪とも表を薄きべっ甲を以て包み製す。故に甲痕も真偽を弁じがたき迄に模造せり、この名つつみ、一名きせとも云也……又嘉永中鶏卵を以て模造する者あり、其初、真偽を分ち難し。
嘉永六年(一八五三)喜多川守貞が著した「守貞漫稿」にも、このことについて次のようにいっている。
余が所間  何の年歟、官命にて玳瑁の櫛を禁止す。其後奸商が玳瑁と云わず鼈甲と名付けて反之。今の世人は鼈と云うを本名と思う人多く、又官にても往々高価鼈甲を禁ず事あり。鼈は土鼈にて乃ち俗に云すっぱん也。
玳瑁は珍宝の其一也。夫を奸商すっぽんに矯けて賣之し也。今は朝鮮鼈甲・粉鼈甲等の名ありて模造を巧にす、蓋朝鮮鼈甲も朝鮮玳瑁也。漢人も玳瑁の櫛等を用ふ赫胥氏治造に十四歯梳後世雑以象牙玳瑁為レ之其製形如二八字言一云々是剪燈新話八字牙梳白似レ銀と云言の注也。
江戸でべっ甲細工が行われるようになったのはいつ頃からであるか不明である。玳瑁亀図説には前述のように「玳瑁爪来の記」に大阪より当地へ始めて来着は天明二年の頃……とあるが、べっ甲細工の始めについては年記がない。
古賀十二郎先生は引用文献を示されず「元禄時代丸山付近には多くのべっ甲職人があった」と記しておられる。
享保年間には長崎のべっ甲商の名が「長崎港草」に次のように記してある。
長崎洪水
享保六年辛丑閏七月廿八日大洪水あり……其の願に依て拝借の銀高如左
酒屋町
拝借一、銀五百目 鼈甲細工人 鼈甲屋利左衛門
御助成一、銀貮百目 鼈甲細工人 鼈甲屋八兵衛
西古川町
拝借一、銀三貫五百目 鼈甲井薪商人 桔梗屋七左衛門
これによってみると当時のべっ甲屋は酒屋町に二軒、その川むかい西古川町に一軒あった。共に当時は賑やかな通りであ.った。当時街中には四、五軒はあったのであろう。
享保四年(一七一九)西川如見・忠次郎父子が出版した 「長崎夜話草」 の長崎土産の項には鼈甲の記載はない。それはべっ甲は高価で贅沢品であったので一般的な土産品とならなかったのであろう。また文政初年編纂された 「長崎名勝図絵」 長崎土産の項にも鼈甲はのせられていない。このことば知見の土産品の項をうつしたからであろう。
文化元年(一八〇四)長崎奉行所支配勘定役として赴任してきた萄山人太田直次郎は長崎べっ甲はあまりの高価の故に家人への手紙に次のように記している。
笄かんざしなど此節市中拂ものに出候も、かんざしは二本にて六七百目などいう事にて、けしからぬ事に候、大阪鼈甲屋大みせ、三井出店 有之。此方きてつもらせ見可申と存候当地に一軒其事功者成もの有之 いづれにも
安くつつ一本金壱両位之事に申條…当時は本物とまがう、代用のべっ甲がつくられていたことがわかる。
安永二年(一七七三)大坂永井堂亀友筆の 「小児養育気質」巻三には次のように記してあった。
そこには張甲の苦心談が読みとれる。
此処に東都十軒のはとりに亀屋九四郎(按ずるにこの名は亀の櫛という意で)作者の私構であろ う、と称する鼈甲の櫛細工の上手、たいまいの上手、たいまいの照りに好き処を二分三分程のかけをもつぎ寄せ、少しも見えぬ様に仕立商なふ名細工人〜二月晦日京に上り、少しのしるべをたのみて覚し職を始めけるが、広い京に真似る者はない鼈甲の細工故、人に知られ、小間物問屋の大商人共、九四郎が細工を称美しけるとあり。是を見たる次の日旧友たいまい楼照寿老人の基に至りて、右の書面の事を語りて接合事の起立おばえありやと尋ねしに翁謂ふやう、我等は今に三代たいまいの職を業とす。父は元文元年の生れにて享和十年酉のとし七七にて身まかりぬ。父がはなしききしは享保の中頃、長崎より江戸に来りし回国六部、べっこう職の者にゆかりありて枕をとどめしうち、病に臥し日を全快したる謝礼にとてべっこうをつぐ事をしへやう。始めて櫛等の折れたるをつぐ事を知り、後には掌にも伝え、元文年間に至り職人中寄せ継ぐものいで来て追々広まりしが、未だ今のやうに鋏拐をはめて継事は知らざりし放、けふは誰の所にてつぐ日なりとしてそこに集り、代るがわる鋏を握りて継ぎ、互に助け合ひけるに、仲間の中に一人他人の力を借らず、人よりは多く細工を為す者ありし故、其術を尋ねしに秘して教えず然るに此職人賭に身を果し、細工道具を箱に細め、錠封して質れし、京に上りし後、絶えて音信無き故、職人共いで合せ、斯の質物を受出し、箱を開きて、始めて道具の便利なるを知りけると、父が問つたえし、とてかたりけり。
そして、この箱の中にあったものは鉄箸と柳の木片であったという。
べっ甲製品の代用を「張甲」又は「四方張品」という。芯に牛、馬角を入れ、タイマイの腹甲を張付けたものを「白甲張」背甲を張ったものを「鼈甲張」和甲を張ったものを「甲張」又は「和甲張」。張甲製品は「片面張」と「両面張」 に分ける。
江戸時代の鼈甲製品は高価であった。一八二九年まで出島のオランダ屋に止っていたJ.J.Vo Fisscherの著書「日本風俗備考」巻一四には次のように説明している。
婦人連は最大の見栄としてべっ甲の髪用具を持ちたがる。日本人はこれを上手に細工している。中国人たちがその材料として用いられる亀の甲を供給しているので幕府はこれを贅沢品として禁止している。べっ甲の黒い部分は値段も安い。その良質の黄色の部分を切とって適当な大きさに加工している。このべっ甲の髪飾りはまことに純粋な黄色の琉拍のような外観を呈する。また実際それらは日本人の黒い髪には非常に魅力的に似合うものである。(庄司三男・沼田次郎両先生の訳本より)
鼈甲が一般に安易に使用されはじめたのは戦後を待たなければならないが、明治時代になると材料の入手が容易となったことと、外国に製品が輸出されることもあって、鼈甲の普及は次第に増加してゆく。

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