元禄期以降のべっ甲
通航一覧巻百五十五に次のように記してある。
右唐阿蘭陀持渡り之品々、中古より御停止被仰付候処、元禄十年丑八月廿三日、丹波遠江守様、 諏訪下総守様(両長崎奉行)御立会之節、於兩御屋敷、以前之通持渡り次第商売可仕旨、御赦 免之御書出、年番街年 後藤庄左衛門方之相渡被成候
このことは貞享より元禄にかけて唐蘭船の長崎入港が増加し、元禄七年よりは代物替も行はれ長崎貿易としては、いささか余裕がみえてきたのでこの処置がとられたのである。
長崎実録大成第九、阿蘭陀船入港 雑事之部に次のように記してある。
一元禄十五壬午年(一七〇二)四艘入港。
今年より大針口にて諸糸、薬類、蝋、鼈甲等掛ケ渡。
一元禄十六 末年(一七〇三)四艘入港。
今年より諸品荒物不残大針口にて掛ケ渡す。
この頃よりべっ甲の我が国への再輸入が始まったと考えてよいようである。
玳瑁図説によると櫛笄の指用については六本をもって正式であると次のように説明する。勿論この本が著述されたのが文久二年(一八六二)のことであり、この風習は江戸中期ごろよりのものとみられる。(同書の奥書には次のように記してある。「文久二年歳次壬成閏八月吉日 河尻主人之応需於南窓写之 大堀廣方」)
婦人頭髪ヲ装飾、櫛一枚、笄一本、前指琴柱一対、後差琴柱一対ヲ持テス。以上六品ヲ指シ適 ネ用ルコト規式ナリ。但シ櫛ハ髷ノ前二指シ、笄ハ髷ノ振二差通ス。上方ノ少シ余ニシテ左右 ニ出ヅル髷ヲ止ル為ナリ。前指ノ一対ハまえがみノ左右ヨリ指ス。後指ノ一対ハつとノ左右ヨリ指ス。
前後ノ琴柱ヲ指二足先ノミ髪二人ル。其ノ外一頭二櫛笄ノミ指用ヒ、亦簪ノミ指用ル多少ハ各 略用ニシテ心ニ随ヒ差用ルトコロ也。(原漢文)
私は江戸時代長崎の婦人がべっ甲をもちいた髪飾の資料として長崎画人荒木君瞻えがくところの美人画(長崎市立博物館蔵)をその参考としてあげたい。君瞻は洋画の影響もうけ、写生画に意を用い、自ら一家をなし長崎の代表的画人として唐絵目利にまで進んでいるが文政二年(一八一九)三十九才で没している。この君瞻の美人画のべっ甲の髪飾が当時の長崎の婦人が一般に用いたべっ甲の髪飾であったと考える。それは櫛、笄、髪捷各一本である。
玳瑁図説には櫛、笄について次のように説明する。
櫛の形は棟厚く歯先薄く。その棟の厚さ二分位、歯先は一分位を定としている。そしてその櫛には種々の形があり同書には十四程の名を記しているが、その中より年記のあるものをひろうと、次の四種がある。
○山高形櫛 享保・元文の頃より
○利久形櫛 横長き形を云う。寛延・宝暦の頃より
○光輪櫛 棟中の中に彫透しの模様あり、明和・安永の頃より
○吉原形櫛 文化年巳来天保に至て寿ら観式用る形を云
笄は上の巾広く、下の巾狭し、厚み上厚く下方薄し、凡そ定れる形也。長短・大小不同。各其の好みに随ひ作る故なり。其の形上は角にして下丸し。文化年以来、次第の下の巾広く、上の巾と多分同じ、漸く下の巾より二厘程狭し。
○黒白斑に作るをバラつ笄と云。胴にのみ黒斑あるを胴入笄と云。黒斑1ツニツあるもの一ツ斑笄、ニッ斑笄という。
○天保年間専ら無斑品を用いるを無地斑という。
○同年角笄というは四分角、五分角など惣て幅厚同様なる形を云。
○此の如き厚肉笄流布する故髪振差通し難し、依て銀又は黒甲を以笄ノ逆輪を作り笄ノ下元逆輪を仮に指髪を指通して取除く具也。
笄の種類を十七種記してある。この中より年号の記したものをあげると
○揚枝笄 享保巳来明輪年頃まで専ら用う。
上幅狭く、上角とハスに批たると二種あり下巾大に狭く歯揚枝の如し故に名く。
簪琴柱 惣て耳柧付たる物を簪と云ふ。其形耳抓隋圓にて表之へ曲り、表のみ面なし表の丸より裏の丸さ少なく……文化年巳来る耳柧次第に大く、天保年に至り肩巾より耳柧ノ巾五度程も広く拵る也。而して肉厚き物寿ら流布、一名前琴指、後指琴持と云。唯短き物を前指と云う。長き物を後持と云。其形元と琴柱より写したる成るべし。前指、後指共に二年一対を以規式と指用る。更に簪については松葉前後簪、松葉流前後簪などと十四種に分けて記している。
○差込一名無双 彫細工物
差込始て作る事、明和、安永年頃。文化年頃より彫差込を作る。文政年間の頃鋪肉彫流布す。
尚天保年も同じ、且つ諸家様方笄元差込を付用る事寿ら也。
これらの事より江戸時代の櫛笄は享保年間より次第に形が整えられている。古賀十二郎先生の長崎市史風俗編に次のように記してある。
○櫛 長崎の玳瑁、べっ甲の櫛は天下に誇るべきもので、特に丸山遊女の玳瑁の櫛は見事なものであった。今猶は長崎のべっ甲細工は長崎の名産として海外に知られている。
○長崎談叢第一輯(昭和三・五発刊)に林源吉先生は長崎名物考(其一)の中にべっ甲細工のことを次のように記しておられる。
鼈甲細工
長崎鼈甲製品宣傅の爲陳列會を昭和二年春東京銀座松屋呉服店に於いて開催出張の細り東京の 各新聞記者方から鼈甲に就いていろいろの質問を承け、甲記者は先づ鼈甲製品とセルロイド製品との簡易な鑑別法を問い、乙記者には長崎鼈甲製品将来の希望などを訊ねられ、之れに答へた意見は帝都一流各新聞へ二段抜き見出しにし数十行掲載され松屋の陳列實物宣博と相待って長崎鼈甲の宣傅は甚大の成績を挙げ得た。
鼈甲陳列會場の松屋七階には同期間「浮世絵展覧會」が催され初期肉筆、舞妓遊女遊楽、湯女など慶長、寛永時代の作になる数十貼の名画が陳列され傍ら鑑賞することを得教へらるるところがおおかった、其一は屏風に幅物に絵巻に描かれたる幾十百の婦人風俗が総て櫛、笄を挿してゐないことである。
二世春信と称し浮世絵を能くし後洋書を学びて有名なる司馬江漢が文化八年に記述した「春波楼筆記」に一頃日寛永年中の書を見しに女の帯は絹巾を半巾にして結びめなし振袖は二尺に足らず、頭に櫛笄かうがいはなし、-とあり、生川春明編「近世女風俗考」に-さて古書どもをそれ是厚見るに貞享年間より以前のものに頭に櫛笄など刺たる体所見なし、いかが、-とあり、貞享二年版「傾城野群談」に-當世の女衆は厨糸つむくまで玲瓏の玳瑁ぐし幅ひろの笄常紋のかんざし、-云々とある。
長崎鼈甲細工の歴史に就て過去の文献は-元唐傅なり、-とお茶を濁し年代など更に記載されてゐないやうであるが、1元禄時代丸山附近に多くの鼈甲職人があった、と嘗て古賀先生が教示された、貞享は五年改元して元禄となってゐる、貞享時代玳瑁櫛を用ひたことば前掲の如しである、寛永と元禄との差は僅かに四十餘年であり、唐蘭の影響を受け長崎の商工が著しく発達した好況時代である、丸山遊廓が開設された寛永の頃或いは二十餘年後の寛文時代長崎の遊女は玳瑁(鼈甲) の頭飾品を用ひてゐたのではあるまいか。
「帝國工藝」 (帝國工藝合刊行)第三巻へ水産講習所妹尾技師は「鼈甲製品を輸出すべし」と題を掲げ1比獨特の妙技を以て西洋の趣味嗜好に投ずる優品を造り盛んに輸出して國際的に商品にせなければならぬと考へてゐるのである、-と説いてある、東京で製造される鼈甲製品は現在のところ婦人頭飾品に限られ妹尾技師が西洋趣味の製品を獎められることば尤もであるが長崎には幕府時代既に西洋趣味の鼈甲製品があり五十餘年前去る明治十二年三月開設の長崎博覧会へ江崎榮造氏(先代)が出品した品目のうち鼈甲製大鉢、大箱、菓子入、鳥篭などと共に鼈甲製時計並びに時計鎖、時計掛硯屏、名刺入、紙切、莨入など西洋趣味の製品があり世界各國の博覧会へは其の都度政府は長崎鼈甲製品を認め子弟して出品させ江崎商店など時代に適應した製品を出品優勝を獲、稱讃を博してゐる。
傅統の特技は益々発揮せしめるとともに生活様式の革新に順應した新時代の要求を無視することば出来ぬ、松屋陳列会の折り或人から或婦人へ鼈甲のローマ止めを進呈した、然るに婦人は今日の所謂モダンガールで断髪であったので後で他品と取替へた皮肉があった、今日社交界の婦人は多く頭飾品を用ひてゐない、此のオールバックがいつまで保つか、頭飾品製品造並びに販売業者は苦心頭を痛めてゐるが長崎鼈甲製品の特徴は頭飾品以外の品種、ステッキ、莨入、パイプ、眼鏡、カウスボタン、靴箆、インキセット、ペン軸など新時代の装身具文房具を得意としてゐる、大阪の三越、東京松屋など陳列会のをりをり、多数の観覧者にそれぞれ批判を受けたことは長崎 鼈甲製品即向上の道程であった、最近懐中消毒器の新製品が案出された、遉が新味がある。
乍併、将来(或は近く)長崎に限られた特製品の大敵が中央都市から現出することを覚悟せねばならぬ。亦、我長崎が生れ出づる千年前我國に於いて、頗る精巧にして甚だ優良なる鼈甲細工が製産され現に奈良正倉院へ数種の御物が秘蔵されてゐることを承知して置くことは必要である。
現存する犯科帳でみる限りオランダ船がべっ甲を持渡ったのは寛政元年(一七八九)頃までで、その後のべっ甲は唐船持渡り品となっている。このことについて文久二年(一八六一) 「河尻主人野応需寫之」として龍坡・三谷重緒と大掘廣方の著名のある「玳瑁龜圖説」には次のように記してある。
○安水年末頃より阿蘭陀玳瑁甲不持渡、唐船より玳瑁多く持ち渡る。是迄も少し宛は唐船より持渡る下品物多し。
○天明二年(一七八二)より玳瑁・爪当地にて追々櫛笄に作り始。其後都市は玳瑁甲・爪取交え舶来せり。玳瑁・爪来着の記
唐方より舶来は甲と同じ、大阪より当地え始て来着は天明二歳頃、江戸十軒店唐木屋七兵衛殿方へ始て大爪著す。夫より追々細工に用いることを知て櫛笄等に作る。其後は甲爪両品舶来に依りて打交て細工に用る。是迄当地にて爪用ることば勿論不知。上方筋も同様と相見え、先年甲箱詰にて来る説、箱の内、藁の替りに詰込に致来る由聞伝ふ。依之か一説に語甲と云、音を仮りて爪甲とかや。謂然字像には不当、実は縁甲にて可然事也。
ベっ甲には以上二つの他に腹甲というのがある。玳瑁の腹の甲という意味である。本図説には次のように説明している。
玳瑁股甲之記 玳瑁亀に具足する腹甲故、甲爪同様に持渡る筈に思はるる処、舶来無之は如何哉」
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