玳瑁とべっ甲
.現在、われわれは玳(?)瑁と鼈甲を同一視して使用しているが、これは誤りである。
そして、このことについては既に前述しているが、それがいつ頃より混同して使用されるようになったか、何故そのように混同されるようになったかということについては不詳である。
一六〇三年長崎で日ポ辞書が編纂されるまでは、一応ベッコウは薬用の亀とし、タイマイは細工物を造る亀の甲と区別してよばれていたと考えてよいようである。
この混同された理由としては共に薬用になる亀の甲であること、タイマイは我が国には生息していないのでタイマイは細工物として持ち渡られるか、又は細工物の材料としてタイマイの甲のみが持ち渡られるのでベッコウ亀と同じ亀と考え両者混同してよばれていたのではなかろうか。
兎も角、十七世紀の後半、我が国にタイマイの細工物を持ち渡ってきたのはポルトガル船か、南方海域から来航してきた唐船であったと考える。私がポルトガル船を第一に考えたのは、鎖国時代になって江戸時代の後半になるまでタイマイの細工物ならびにタイマイ細工の原材料を我が 国に積み渡ってきていたのは、ポルトガル貿易船とそのあとをうけて来航してきたオランダ船でぁったからである。そして、ポルトガル、オランダ両国共に東洋における貿易の中心地を前者はマカオに、後者はジャワにおいていたとは、其の周辺の海域こそタイマイの生息地でありタイマイの細工人たちもその周辺に多く住んでいたからである。
一六四七年一月十日(正保四・十二・五)出島カピタン・ウイルレム・フェルステーヘンは江戸で将軍に謁した後、大目付井上筑後の守の邸に届物をしている。(長崎オランダ商館の日記・井上直二郎訳)
十日、一杯に詰めた薬箱とマカッサル織物、パーチメント皮、べっこうの塔などを通詞に持たせて筑後殿邸に遺した。閣下は織物は古いからと返され、薬箱の代を尋ねた……閣下に呈すべき品であるが進物は受納されぬゆえ値をつけたと話した。閣下はもっと多く扱うであろう。
将軍の献上品にべっ甲細工があらわれてくるのは上述のように通航一覧二百十二巻によれば万治二年二月二十八日の「べっこふ火燈篭三つ」とあり、續いて寛文十一年(一六七一)延宝八年(一六八〇)の三回の記載があるがこの他にもあったかもしれない。それ以後、べっ甲細工の献上品は記載されていない。
通航一覧巻百五十四には「阿蘭国より商売持来申候品々として
一、しやうじゃうひ 一、大羅しゃ 一、らせいた一、すためん……一、べつかふ 一、びいどろ道具 二金から皮 一、阿蘭蛇焼物
と五十二品目の名称をあげその内右の六品目胃については前述のように「日本下直に御座候故持渡不申候由申候といい、これらの品々を合わせて二十六品目を寛文八年(一六六八) 「持渡り御停止」となっいる。
これは沼田二郎先生が御指摘されているように (江戸時代の貿易と対外関係・岩波講座日本歴史十三)物価高騰にともない貿易品の騰貴抑制のためであり、幕府も寛文八申年二月、三月には倹約令を申し、同年八月には重ねて 「弥相守可申候」といっている。(寛保御触書集成、十九)この年の唐船の入港数は四十三艘、蘭船の入港数は九艘であった。この時、長崎奉行は蘭船に対して銀の輸出を金の輸出にかえている。銀の産出額に不足があったのである。
当時長崎の町は寛文三年(一六六三) の大火で町の大半を焼失し、その復興期にあたっていた。同大火のことについて 「実録大成」 は次のように記している。
(大火にて)兩御奉行御屋敷ヲ始、惣町ノ内五拾七町全ク焼亡、六町半分残。二町卜出島残ル。寺社ノ内三拾三ケ所類焼ス。(焼残りの町とは今町と金屋町である)
オランダ船の金の買渡りは寛文五年金子五百兩にはじまり、翌六年は金三万両、同七年は金五万両、となっている。
この金の輸出ならびに貿易禁止品についてのオランダの反応についてはナホットの 「十七世紀日蘭交渉史」 に詳しい。それによると、
この輸入禁止令によって和蘭側の打撃は少なかった。大方は唯高価な錦欄地その他貴金属に関しており、此等は夙に和蘭輸入品としては只幕府献上品として考慮されるのみとなっており、その他にも硝子、薬剤、漆器、陶磁器類があったが、此れ等は先述のヨーロッパ衣服地同様、 今更日本にて好取引となるようなものではなかった。……
金の輸出は一六六三年(寛文三)再び始まり公にはできなかったが小額ながら七二五五八グルデンの金を買うことができた、……金の輸出が極めて大きな意義を持つようになったのは一六六八年(寛文八)で此れは銀の輸出が禁止された年である。このとき小判の値は二〇%だけ下がり即ち五・六夕エルとなり約一一四、000個が輸出された。金は概ねコロマンデル海岸に向け持ち行かれ、ここでは六・八夕エルの売価にして二%の利益があった。
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