タイマイの材料とその製作過程について


タイマイの材質については前述した永沼武二氏が後述する説明書を送って下さった。
またタイマイの甲の種類については文久二年大掘廣方が編した「玳瑁図説」には次のように分類しているので下記の永沼氏報告と対比して読んでいただきたい。
タイマイ背甲。
襟甲なり 俗にトムビ甲と異名を云う。一匹分拾三枚の内、此襟甲は他甲より肉の薄く、色合いささか劣也。
黒斑 背面に篠を突たる如きウハ瑕あり、是れを砂摺と云う。
肩甲。左右に相対す、俗に鮒甲と異名を云う。一疋分の内にて此の甲肉合トムビ甲より、しもの方厚し.色合トムビ甲と同じ。
黒斑
背の中の甲。俗に背甲と異名を云う。背中高く、襟より尾に迫り、襟甲に続き、背の量甲(オモコウ)の上に至る。此形三枚有り、拾三枚の内にて肉中分、色合究めて宜し。
赤斑
大甲 拾三枚の肉
此形、左右に二枚ツツ相対し惚て四枚也、俗に量甲(オモコウ)と異名す。目方多き故か鮒甲に続きイチョウ甲の上に至りて襟と尾等の真中なり。肉合中分平均にて延びやかなり。色合究めてよろしく價貴し。
赤トロケ斑
尾ノ脇甲
左右二相対す。俗に銀杏甲と異名す。亦ヤキメシ甲とも云う。一疋分の内、此甲の肉合、量甲より厚く、色合量甲に次ぐ。
アカフ
背通り尾ノ甲
俗に背の量甲(オモコウ)と異名す。背通り五枚の終り、中高し、一匹分の内にて此甲肉合究めて厚し、色合いちょう甲に次ぐウスクロフ。
甲にほすべて図の如く杢目之れ有り、自然と生じたる形勢にて雲の如く水の如く奇なり、実に写し図し難き処なり(タイマイ甲肉附方)
タイマイ笹亀
此の量甲の如き黒斑少き物、上透と云う。
斑立、図の如き面みな刺斑なり。
タイマイ縁甲
大皿屁先〔ヘサキ)一対。笄・かんざしに多く用之。伐爪(キリズメ)と異名す。究めて肉厚一ツ掛目拾二三目より二拾四五目位。
キリ爪、中爪、クシ爪、小爪、虫喰爪(異名コブ爪)、刺爪 表と中身の間に堅に白髪の如き筋有り此の筋正中を突分る。
コブ爪、大中小ともに有之。実は虫喰爪なり。是はタイマイ亀、海中に生育する時、自然と甲爪へ蛎の類喰込み長ずるに随ひ、虫喰の回り肉揚り、其の処はクポカに成るかたちなり。(かきの形丸く、縁高く、中空なり)
○昭和六十二年十月永沼武二氏の説明書
大正時代より昭和の初期の間、私の父永沼義之助(一八八八〜一九四三)長崎市古川町三番地居住が、ベッ甲細工職として使用した、ベッ甲の原料に就て其の概要を述べます。
べッ甲の品質
○上甲(上茨布甲)は甲一面に飴色の部分が多く見られ、斑ノ部分が少ない。
石目(表面)に疵や、カキブゼが無い。
○中甲(中茨布甲)は甲一面に飴色の部分と斑の部分が入り交じって見られ其の割合は大体半々位である。
○並甲(上茨布甲)は甲一面に斑の部分が多く見られ飴色の部分が少ない。
石目(表面)に疵や、カキブゼの付着している物が多い。
○爪甲とは玳瑁の側面に密着している甲の一種であって、石目(表面)の部分は茨布甲、反対面(肉目)の部分は飴色の甲である。腹甲(肚甲)とは玳瑁の腹部に密着している薄い甲の一種である。
ベッ甲の価格(昭和初年)
上甲は斤当り(○.六キロ)二十円内外、入荷量が少ないので高値で取引された。
中甲は斤当り(〇・六キロ)十円内外、一般的な物として広く使用された。
並甲は斤当り(○こハキロ)三〜五円位、大量に出廻っていた。
大爪甲は斤当り(〇・六キロ)二十円内外、高級品向に使用された。
腹甲(肚甲)は肉質が薄いのであまり利用価値がなかった。
○ベッ甲の輸入先
大部分め物が新嘉坡から輸入されました。ジャワ、セレベス、ボルネオ諸島で採取された物が新嘉坡に集められ一纏めになっておりました。
主として華僑の商人が取扱っていたので、南京甲と呼ばれております。
当時長崎でのベッ甲の原料は南京甲が主体でありまして、中南米産の物は殆んど使用されておりませんでした。
○こん包の方法
ドンゴロス(麻袋、アンダンフクロ)に包まれ籐で編んだ篭や木箱に収納されておりました。
一堤げ(一匹分十三枚)を一組として穴をあけ麻紐で通してありました。
亀一匹の目方は小さい物で〇・八斤(約〇・四キロ)から一斤(〇・六キロ)位、大きい物で一.五斤(〇・九キロ)から二斤(一.二キロ)でありますが、中には二斤(一・二キロ)を超す物もありました。
一篭(一箱)の収容量は大体一〇〇斤(六〇キロ)位のようでした。
○輸入の方法
新嘉坡在住の親戚、友人、知己等に送金して買付を依頼し船便で長崎港まで運び陸揚げしておりました。
当時長崎にはベッ甲原料を取扱う貿易商社はありませんでした。
南洋航路の船員に委託又は船員が土産物として持込む場合もありました。
ベッ甲細工職人が自身で新嘉坡へ出向く場合もありましたが此は稀な事でした。
年間を通じ二三回位大掛かりな輸入が行われていた様です。
○取扱い業者
当時市内には東浜町に前川文三郎氏、本篭町に本田平十氏、東古川町に西沢氏、万才町に藤野氏がいて、ベッ甲原料を取扱っていました。
其等の人の下に中間業者(ベッ甲細工職人の兼業)がいて小口の取引に当っておりました。
○取引の方法
大口の場合は多数のベッ甲細工職人が集中して、「セリ」により高値をつけた人が落札するという方法を取っておりました。
小口の場合は一堤げ(一匹分十三枚)を斤当り単価をきめ、其に目方を掛け(何斤何合幾勺)を掛け代価を出しておりました。一篭(一箱)単位の取引をする場合もありましたが、此は稀なケースでありました。現在の様な約束手形による決済の方法は未だありませんでした。
当時はベッ甲原料には輸入税はかかりませんでした。
亀一匹は本甲四枚、蛤甲二枚、船甲二枚、背甲四枚、トンビ甲一枚計十三枚と若干の爪甲及び腹甲で成り立っております。
タイマイの加工技術については前記「玳瑁図説」にも工具図と共に説明が加えられているが現在においても、その工程は工具を除き殆んどかわるところがないので、渡辺庫輔先生が御子息の武彦氏と共に一九五四年まとめられた「長崎の鼈甲細工」の中にべっ甲細工技術について次のように述べられ、且つ前述したタイマイ甲の種類も図示しておられるので左記に掲載する。
長崎の鼈甲細工 渡辺庫輔、同武彦著
○ 細工技術の大略とその要点
斯業のこの技術こそ本邦独特の秘技であり他国人の追従を許さぬところで、またこの細工上における癒着技術こそが師弟間においても厳格な秘密主義を固持してきたのである。
本邦における当初の細工は、現今における外国人の細工と同様、一枚甲からの挽抜てあったために不用な切屑が種々の型でできたのであるが、日本人的器用と勘の好さでその癒着技術の考案に成功し、現今ではその切屑の小片に至る迄巧妙に素材と接ぎ合わせ少しも廃棄することがない。
現今におけるその大略を次に説明しよう。
細工上においては、内部を除き先ず鼈甲の原料である海亀の甲羅をはがさなければならないが、これには内部を除いた海亀の甲羅全体を水気のある土中に一週間乃至十日間うづめ土中にある各種バクテリア菌の作用で甲の附着部における各肉骨質を完全に漂化させた後甲羅のむくれ上るのをハギ取るのである。
この方法も公開伝授されず、従って徒弟間や地方細工人は煮沸したり、その他の方法を行っており、そのため鼈甲の素質を低下させる嫌いがある。
従って現今においても師匠或いは斯業のベテランと称せられるものはこの方法を伝授しないかもしれない。これで、長崎産と地方産の優劣は既にこの当初から異なっているのを察することができよう。
こうして一枚ずつハギ取った甲を、そのままでは平滑でなく彎曲しているので、万力のような形をした器具の上で、この素甲一枚を平滑とするため(甲の大小にもよるが)、大略一一糎×二一糎、一一四糎×一八糎位の何れかの鋳鉄製板(厚さ一・五糎〜二糎)上において、この鉄板の冷却を応用し、これを別に炭火で焙った素甲を急速に人力による最大圧力を加える。これをプレス締めというがこれをおえたら、約五分〜七分後これを取り出す。この操作を工匠は 「万力で打つ」といいまた他の方法としては、素甲に布地を湿したものでこれを包み、前記した鉄板を炭火 で焼きプレスを行い、軟柔として約十分の後これを取り出し風乾させる法もある。
こうして一先ず平面にして、所用大に鋸で切断し、厚さの一定しない箇所があれば「焼継」という方法を用いる。この方法は、素甲の薄い部分に斑点または色合をあわせて他の甲を重ね合わせ、厚すぎる箇所は削りとり、一定の厚味として、色の悪い所は切捨てながら斑点を望みのまま生かすよう取捨てながら順次に継合わせ、所用の多きさにし、適当な型に糸鋸で切断し製作にとりかかる。
ここで先ずこの 「継合わせの方法」 に関して説明しなければならない。
これは継合わせる部分を雁木ヤスリ (又は雁切ともいう)という特殊ヤスリと、砂ヤスリ(サンド・ペーパー)木賊、小刀の順で鼈甲のつぎ合わせをなす部分の傷、及びその部分の表皮と薄皮を取除き、汚物と湿気を完全にとり去った後、手掌にある油気や汗気をつけないように注意しなければならない。もし油気や汚物があればそれらの張力によってその分子の作用で附着しない。
この汚物と油気の除去を終ればこれを清水に一寸浸し、次にこれとは別に同じく清水に浸した柳の薄板(厚さ三粍〜一・五粍)を以て前記操作をおえた鼈甲を挟み、その上から炭火で焼いた金火箸(これは普通の火箸ではなく、ヤットコのような形をした大きなもので、別名、鋏ともいわれるものでその先端の厚さは三糎×二糎位の各種がある)もしくは前述した鉄板の焼いたもので鼈甲を柳板で挟み合わせ挿入し、前記したプレス台上で充分に締め圧縮すると、蒸気による鼈甲自体の粘力によって接着し、殆んど合わせ目が不明となり元の一枚の甲の如き物質となる。
しかしこの方法は頗る簡単なように思われるが、焼けた鉄板の熱度を水に浸してその瞬間における水玉の上り具合、或いは水一滴を落してその瞬間における水音などで加減調節するなど極めて微妙な勘を必要としてこの諸操作に熟練を要するのである。即ち本鼈甲自体の癒着に関してはその接着面に糊及びそれに類するような接着剤を用いるのではなくただ永加減のみでこれを行うにすぎない。
この際における水には一寸した汚物が入っても附着せず、塵、手汗、手垢などがまじったのでは全然だめである。
また鉄板や火箸の焼加減が実に肝要でありその要領は焼鉄板、焼火箸の上に水一滴を落し、シェーンと音がする加減でまだ乾きが若いか或いは過ぎたとかいうのであって、いわゆる勘の問題である。
この癒着には鼈甲が同質と同質なら水で行うが、鼈甲と他の擬甲(水牛角爪、馬爪等)とを接ぎ合わせる際(これを「張り甲」と称し表面のみ鼈甲を出すのが通例)には水を用いるのではなく鶏卵の白味をもって前記した方法によって接着せしめるのである。(これに関しては後述する)この技術こそなかなかの秘法であった。しかしこの技術は元文年間(一七三六〜一七四〇)に至って自然考案されたものらしく、バクチ好きの無名の一職人によってであるらしい。漠然としているが、左の文献を原文の侭掲載する。即ち、
安永二年(一七七三)版、全5巻、大阪永井堂亀友の「小児養育気質」巻3に、
此処に東都十軒のほとりに亀屋九四郎(按ずるにこの名は亀の櫛という意で(作者の私構であろぅ、と称する鼈甲の櫛細工の上手、たいまいの上手、たいまいの照りに好き処を二分三分程のか けをもつぎ寄せ、少しも見えぬ様に仕立商う名細工人〜二月晦日京に上り、少しのしるべをたのみて覚し職を始めけるが、広い京に真似る者はない鼈甲の細工故、人に知られ、小間物問屋の大商人共、九四郎が細工を称美しけるとあり。是を見たる次の日旧友たいまい楼照寿老人の基に至りて、右の書面の事を語りて接合事の起立おばえありやと尋ねしに翁謂ふやう、我等は今に三代たいまいの職を業とす。父は元文元年の生れにて享和十年酉のとし七十七にて身まかりぬ。父がはなしにききしは享保の中頃、長崎より江戸に来りし回国六部、べっこう職の者にゆかりありて枕をとどめしうち、病に臥し日を全快したる謝礼にとてべっこうをつぐ事をしへやう。始めて櫛等の折れたるをつぐ事を知り、後には弟子にも伝え、世に広まりしが、未だ今の如く切抜つぐ事は知らざりしに、元文年間に至り職人中寄せ継ぐものいで来て追々広まりしが、未だ今のやうに鋏拐をはめて継事は知らざりし故、けふは誰の所にしてつぐ日なりとてそこに集り、代るがわる鋏を握りて継ぎ、互いに助け合いけるに、仲間の中に一人他人の力を借らず、人よりは多く細工を為す者ありし故、其術を尋ねしに秘して教えず然るに此職人賭に身を果し、細工道具を箱に細め、錠封して質れし、京に上りし後、絶えて音信無き故、職人共いで合せ、斯の質物を受出し、箱を開きて、始めて道具の便利なるを知りけると、父が聞つたえし、とてかたりけり。
とある。即ちこの箱の中のものは鉄著と柳の木片だった。
この話に関しては各種があり、ここに参照した文献は相当読みづらい箇所もあるが、要はこの文献に見られるように、この接着技術が如何にセクションを墨守していたか推察に足るものであろう。
研磨及艶出に就いて
長崎製の細工品の有する特色はこれにも存ずる。
先ず鼈甲細工を行うには原料を切断し雁木ヤスリと鋏(鉄箸)にて前述の継合せを行い、適当な型に糸鋸を以て切抜く訳であるが、彫刻等に関しては原図を日本紙に画き、これを型取った素材に糊ではり附け、その上を原図通り彫刻刀で以て刻みこれを行うのである。
この外ブローチ、シガレットケース等は金具を配する。これにはその部分を穴空けし、次に金具を熱した鏝にて圧押しこれを固着せしめる。次に、櫛等にマキ絵を配するには、青貝等を特殊な方法によって意の侭の型に打抜き、鶏卵の白味を以て前記した方法によって接着せしむるのである。
これらの諸操作を終れば此処で述べるところの研磨から艶出に移る。
研磨の方法は、小刀での地作りの後、昔は鮫の皮と木賊、椋葉の順にそれを行っていたが、現今は鮫の皮の代りにF版のサンド・ペーパーを用いる。しかしその順序は昔と異ならない。
ここで記述しなければならないのは椋の葉に関してである。現在でも新品製作上最善の光沢を発揮させる為この葉は必需品であり絶対に欠くべからざるものであるが、これに就いては小刀で切作りした後他のペーパーや木賊にて研磨してもキメが荒く、亦これだけで済ませては鼈甲自体の特色ある光沢が全然ないので、この光沢を出すため旧来の伝習により椋の葉を使用するのである。
椋の葉は土用に入ったものを採集し、これを風乾せしめて保存に便ならしめる。土用に入った 椋の葉を採集する理由は土用の太陽光線が強烈で、故にこれを化学的にいえば植物特有のクロロフィール (アルファー) 及びクロロフィール (ベーター)よりなるカロチン及びキサントフィールなる二素の色素、即ち葉緑素が多く、これによって椋葉の微細な毛質が硬くなりキメが締って来ることによってこの時期に採集するのである。
その他の樹葉を用いてもキメが椋葉の如く微細ではないので、従って光沢を出す工程には不適となる。正封氏談によれば、比較的に椋葉の代用となるべき近いものは篠(ササ) の葉があるが、これとて前者との比較にはならない。
椋葉を風乾させるとその葉緑素は他の木葉と同じくフエコインク色素及びフコキサンチン等によって茶褐色に変じるが葉の表面における毛質は硬化する。従って使用時にはこの乾燥した葉を清水に浸し、水気を帯ばしめて柔軟とするが、余り水気を帯びしめ過ぎるとその毛質が柔軟となり鼈甲面を研磨する事が困難となる。従って椋葉の浸透時間は約五分以内が適当である。
これを指先に持ち、たえず加水し研磨を行う。
この研磨及艶出の方法は 「古典式」と 「近代式」 の二つに区別される。
古典式艶出しに就いて
これには先ず型取った素材を雁木ヤスリにて疵や油気を除き、通常のヤスリで本型をとり、これらをF版のサンド・ペーパーで磨き、更にサンド・ぺーパーの疵を除く為キサギ刀で充分地ならしを行い、木賊、椋の葉の順でキサギ刀の疵を加水研磨しこれを終れば湿った椋の葉で加水することなく順柔になった椋の葉で充分研磨し、亀甲粉を表面に生ぜしめ、次にこれとは鹿角粉〔ツノコ=鹿の角を焼いて製した純白色の微細な粉末)をマサ目の少ない桜の版上にて表面の滑かな堅い陶器の如きもので充分こね廻し、荒粉のないよう注意しこれを羅紗地に附してこの粉末の逸散を防ぐ為と研磨による焼附を防ぐ為に、極微の水を附して指で前記した鼈甲面を充分に磨くのである。しかしこの研磨中において鼈甲と羅紗地の摩擦に依る焼附を除くため時々細工人は自分の唾液を附けながら磨くのであるが、これで大体の色艶が出て来たところで、今度は鹿の揉皮に前記した鹿角粉を附して鼈甲面を充分に磨き、そして最後の仕上には「手艶」と称して、手掌の油気を充分除き、手掌にて根気よく鼈甲面を研磨して此処に仕上を終る。この操作中、細工品に手汗、垢及油気等を附しては絶対に光沢が出ない。従って不潔の如く現われるが細工人はアルカリ分のある自分の唾液にて研磨するのは焼附防止の外、これにも基因するのである。また研磨順序及びその工程をおこたれば全然光沢を発揮することが出来ない。そしてその研磨操作の或一つが充分でない場合は出来上りが鏡面のような照りを発揮しない。
この方法は往時より行われて来た方法であり、鼈甲及び擬甲の真の光沢を表す最善の方法で、これによって出来る照りこそ長崎製品が世界に誇り得る処のものである。- (角粉の代用には歯磨粉を以てしても差しっかえない)
近代式艶出しに就いて
地方製や、長崎でも大店舗等ではこの方法が用いられている。
これには「ハブ磨」と称する機械(動力は電動機を用い普通1/2馬力)に綿製ネルを重ね合せ、これをグラインダーのように急廻転させ、研磨剤を以て古典式の砂ヤスリ、木賊、椋葉の各 研磨法の代用をなし、一操作によってその各種工程をすませ、そして薬品を以てその仕上磨をなす方法であり、労力の節約という見知から推すると最も簡易ではある。また前述のハブ磨を以て大体の艶出をなした上、古典式艶出法の仕上に関する艶出の「手艶」を加える法、即ち近代式と古典式を併用したものもある。
これら艶出の方法はやはり前記した古典式による艶出が最も優秀であり、原始的ではあるがこの点においても長崎の製品は本邦各地の製品や外国製品の追従を絶対に許さぬものである。外国や本邦各地においては艶出工程の順序を省き酸類を以て仕上を速かならしめ等しているが、手数な方法を用いる長崎製品とのその優劣は全然比較には価しない。
細工品中、彫刻や蒔絵を施してあるもの、或いは櫛の歯の側面等の磨に関しては、この磨に用いる布地を指に当てまた刷子等にてその先端に白土を附して気長に磨き、更に角粉を以て之を行いその仕上に関しては手掌の油気を除きこれで充分摩擦してその仕上を完了する。即ちこれが前記した手艶である。この照りの発揮こそ長崎に於ける鼈甲製品の有する独特のものであることは前述した通りである。

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