べっ甲の代価とべっ甲商人  
     
     
 犯科帳をみると更にべっ甲の取引代価がわかる。例えば宝暦十二年(一七六二)には鼈甲櫛一枚代銀百四十目とあり、文化六年(一八〇九)には鼈甲十七斤九合の代価は銀壱貫四百三十二匁であり、十一年(一八四〇)大阪にて四斤入り一箱七十両というのは驚くほどの高価である。
ベっ甲は手軽であるのに高価の故によく抜荷の材料となったのである。前出の犯科帳で宝暦年間(一七五一i一七六三)と文化年間(一八〇四-一八一七)がべっ甲の犯罪が多かったのはこの時代を頂点にべっ甲が流行していたからである。
玳瑁図説によると天保頃には生地が払底し高価であると次のように記している。
天保十一庚子年(一八四〇)夏、炭屋彦兵衛殿大坂より買下し品に右腹甲四斤八一箱見之、此内全玳瑁、腹甲半これあり、肉合一二分、色合中分、其余半は通例唐腹也(唐腹と通名する物。唐セウガクボウの腹甲也)四斤入一箱代金七十両、其高料に思はる。尤生地拂底の時節故もこ
れあり、併始めて賣物に見及ぶ所也
文化元年(一八〇四)長崎奉行支配勘定役として赴任してきた蜀山人太田直次郎は、長崎土産にべっ甲を購入して翌文化二年江戸に帰ることにしたが、そのべっ甲は非常に高価であった。蜀山人はべっ甲があまり高いので「けしからぬ事に候」といっている。このことを蜀山人は文化二年二月廿六日に島崎金次郎あて次のように書きおくっている。
鼈甲はとかくむつかしく、家中へ引上拂出し候由、手板にて江戸に持参らせ候ても至て高料のよし、笄かんざしなど此節市中拂ものに出候も、かんざしは二本にて六七百匁などいう事にてけしからぬ事に候、大阪鼈甲屋大みせ-三井出店1有之、此方きてつもらせ見可申と存候、当地に一軒其功者成もの有之.いつれにも安くつつ一本金壱位之に申候.吉見氏よりも鼈甲の事聞合参候.御出会の筋お咄可被下候.いづれ後便.大阪便に大阪店を聞合相場を承り合可申、北町お幸お冬などよりもねだり申来居候処、右の仕合故いづれ御普請役其外も一同当所 並大阪に相正し候つもりに御座候
オランダ船がべっ甲を持ち渡っていたのは犯科帳に見るかぎり、寛政元年(一七八九)に入港した蘭船を最後とし、次の享和二年(一八〇二)の鼈甲に関する犯罪の時には「唐人より買いうけ」となっているので、この間に唐船がべっ甲を持ち渡り、以後はずっと唐船持渡り品となっている。然しそれ以前にも唐船が持ち渡っていたことは「玳瑁亀図説」に記してあるし、犯科帳の延享三年(一七四六)宝暦元年(一七四八)の事件は唐人屋敷よりべっ甲を持ちだした事件があり、唐船がすでにべっ甲を持ち渡っていたことがわかる。
唐船の人達もオランダ船の根きょ地バタビヤ付近より玳瑁は買いつけていたのであろう。このことについて一七三五年パリーで出版された「中国人の貿易」の中に次のように記してある。
(中国の人達は)バタビアから次のものを買い入れる。……第三番目は亀の甲羅、これで中国の人達は美しい工芸品をつくる。例えば櫛、小箱、ボタン、ナイフの柄、パイプとたばこ箱、このパイプとたばこ箱はヨーロッパのものに倣って作る。(結城了悟神父訳)
Du Halde.J. B Description Geographlque ‥・de LEmpire .de la Chine Paris 1735Vol II .P.172 Du Commerce des chinois.
これによって、当時の中国の人達がつくっていた玳瑁の品物がわかる。
享保十四年(一七二九)の「船積之覚」とオランダ側の送り状(Foctuira)を突き合はせた石田千尋氏の論考が日蘭学会誌第十巻一号(昭六〇・一〇刊)に掲載され、その亀甲の項に次のように記してある。
Schild nadehoon(C)400Ib (W)400Ib CはCasteel von Woerden の送り状1WはWapen von Hoormの送り状 原産地はCの内100Ibはモルツカ諸島テルナーテン、残り300IbとWはモルツカ諸島バング、両方を加算し斤に換算すると666.2\3斤となり「船積之覚」 に三三〇斤と記すは誤りなり     と記してある。
ベっ甲の入札は堺・江戸・長崎の商人仲間で特に唐蘭貿易取引きの許可を持っている商人によっておこなわれた。落札した商人はべっ甲をひきとり、長崎の地もとで使用するべっ甲は別にして、大部分のものは松板でつくった箱に納め、箱は釘づけされ、紙で目張して、取引許可書とも云うべき「手板」を添え大阪の唐物問屋に発送した。箱の蓋には次のように記してあったと 「玳瑁亀図説」はその箱の図をのせている。
何印 合印  山中  極上大晶鼈四拾三枚八  小 子三月
大阪の唐物問屋では仲買人を集めてこれを取引きし、それより江戸その他にも送りつけるようになった。この頃江戸で 「べっ甲商」 は十一軒であったと記している。
この荷造りのことについて享和年間(一八〇一〜〇三)に編纂されたとする「華蛮交易明記」(長崎県史第四中田易直氏編)に当時の「べっ甲」はオランダ船より輸入されていたので「べっ甲」その他を落札した商人について次のような人目を必要としたと記している。
○阿蘭方人目之覚 阿蘭陀方より落札商人之荷請取之節事也
一、宿砂 皿多阿仙薬 漆 沈香…………鼈甲 丹丁子 痰切 刻擯 子 象牙 朱砂
  右百斤付四拾目宛
更に長崎で落札した輸入品を十八世紀の末大阪方面に輸送するまでの取引き方法、商業慣習などのことを記した「明安調方記」(長崎県史 第四 森岡美子氏編)には次のように記してある。
薬種荒物外掛細書
一、鼈甲一駄          一、廿九匁四分        櫃五ツ
  十ケ入七櫃        一、壱匁              釘半斤
此斤数七拾斤         一、八十六匁     太ちん
壱匁八分貮り         一、一匁三分五り      中間三枚
十五斤入五植         一、二匁九分六        なわり十
七十五斤入          
壱匁七分             一、六匁四分          五ケ月
         〆百廿七匁一分一り
京、鼈甲 細物類口銭
一、鼈甲 荷主壱歩 買人貮歩
 壹歩口銭之品左通り
 象牙 魚膠 糸虫 線香
 大阪諸代物口銭定
一、象牙一年角 一    一朱類
一、鼈甲 …………
  賣人 壱歩
  右
  買人 貮歩
諸代物蔵舗之定
一、薬主構入一同箇物
一、鼈甲  一糸虫
          〆壱箇に付貮分宛
  宰領駄積定
   壱駄二付
  西目通壱匁八分
  東目適壱匁六分
一、鼈甲 拾五ケ入 五櫃五
鼈甲 反物…d………‥
阿蘭陀方人目之分
一、鼈甲 百斤に付四拾目
  阿蘭陀詞
一、鼈甲 ケレット
明和四年亥十二月五ケ所相談之上
 陸為登荷物極メ之事
 陸荷物
一、人参類一牛黄一竜脳一伽羅
一、鼈甲  ………………
寛延二巳年(一七四九)四月改
 堺糸荷廻船運賃定
一、象牙 百斤に付 五匁壱分
  唐木類    五匁七分
 鼈甲     三分
       拾斤 入   五櫃七
       八斤 入   七櫃八
       六斤 入   九櫃十一
右寛延貮年巳三月改之
      堺糸荷藏中
      船改西田嘉助
    船宿天平屋善兵衛
西目適、東日通というのは同書に次のように記してある。
西目適道中附 長崎-毒津。時津-彼杵四丁目八百文三丁目六百文(註・船による)彼杵-嬉野。嬉野-樽崎。樽
       崎-北方。北方-小田。小田-牛津。牛津-佐嘉……山家…西目適小倉迄  五十六里十九丁
東目適道中附 長崎-日見大賃二百四丁文酒手百文。日見−矢上。矢上-諫早 諌早-住吉壱メ八百文二丁立 (註・船にる)住吉-久留米。久留米-松崎。松崎-山家…………東目通小  倉之 五拾五里拾貮丁
鼈甲は前述のように糸荷宰領により他の貿易輸入品と同様に大阪に送られた。

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