近世初期のべっ甲


近世における初期のべっ甲の細工物はどのようなものが造られていたのであろうか。
前出のように寛文八年唐船より持渡り禁止品目の中に「作り物・但鼈甲、角類、焼物、人形、匂袋、花類」とあるので鼈甲の作りものが唐蘭船によって輸入されていたことはわかるが、それが将軍家に献上されたような「亀甲の火ともし」のようなものでなく、一般に使用されたであろう櫛、髪指の類であったと考える。
その例として寛文延宝頃の長崎代官末次家に所蔵されていた亀甲細工の物をとりあげてみることにした。
長崎代官末次家は四代平蔵茂朝のとき延宝四年一月(一六七六)事件はおきた。それは茂朝の母長福院が朝鮮密貿易に関連していたことが発覚し財産は没収され、直接事件に関係のあった長福院は壱岐に流罪、平蔵父子も隠岐に流罪となった。(この事件については犯科帳が長崎県立図書館に現存している)
そしてこの家財没収の記録は県立図書館所蔵の「元禄四年末七月二日、末次平蔵御闕所家財諸道具長福院諸道具拂帳」 「同年末次平蔵御闕所唐物道具刀脇指古筆御拂帳」の二冊に残されている。寛政四年(一七九二)熊野正詔が著した長崎港草によると、
延宝四辰年正月九日御詮議ヲ遂ゲラルルニ申開クコト能ハス、二月十七日ヲ以テ平蔵二人獄仰付ラレ其財産ハ悉ク開所ノ所令アリ、家財ノ物品大略如左
として、現銀八千七百貫日余、金小判三千両人三十箱、一、黄金拾牧人十箱、などと記し最後に次のように述べている。
右之外宝蔵の諸道異共に中積り金小判ニシテ凡そ六十万両余也。
犯科帳には平蔵の罪科について次のように記してあった。
右平蔵議御代官をも仕ながら異国之致抛銀雖烏重科、陰山九太夫 下田弥惣右衛門船仕出之儀は不存。其上地方に私曲無之二付而死罪御赦免、家屋舗財宝迄御闕所 辰四月廿九日隠岐国え流罪に被仰付候
この平蔵家の所蔵品の中でべっ甲製品を探してみると、その製品は長福院の所蔵品の中にわずか一点のみが記載されていた。
拾番
一へつこう かみさし 壱っ
長福院諸道具延宝四辰七月廿一日より廿三日まで迄入札を以御拂被成候 代銀……
このように末次家においてもべっ甲製品は「かみさし一つ」しか所蔵されていなかったということば、当時べっ甲製品は高価なものではあったが後世のように大いに流行しているものではなかったことが考えられる。
べっ甲細工で現存している初期のものとしては静岡県久熊山東照宮に収蔵されている徳川家康公の遺品の中にある「無関節式の鼻眼鏡」の枠ではなかろうか。
ガラス玉をはめた眼鏡は十六世紀の我が国では珍しいものであった。
一五七一年のフロイスの日本史第九五章に次のような記録があり、それによっても我が国ではガラスの眼鏡は大いに珍重されていたことがわかる。
一五七一年(元亀二)フランシスコ・カブラルが岐埠城に織田信長を訪ねたことがある。その町でカブラルが近視眼で眼鏡をかけていたのを群衆がみて眼玉が四つある怪物があらわれたと聞きつたえ宿の前に押しかけた。
この眼鏡の枠がべっ甲であったとは考えられないが久熊山東照宮の眼鏡の枠はべっ甲である。
この眼鏡は言い伝えによるとオランダ人より家康に献上されたものであるとされている。家康の歿年は元和二年二月(一六一六)である。オランダ人が平戸にオランダ商館を構えたのは一六〇六年である。このときオランダ人は家康に贈物をしているがそれはささやかなものであった。贈物は次の四つであった。
葡萄酒コップ二個。木綿包三百五十封度、鉛三千封度。象牙二本。
次いで一六一一年平戸にオランダ船が入港したとき家康ならびに秀忠におくった献上品の目録が残っている。(ナホット・九六頁参照)それには共に硝子壜は記載してあるが眼鏡は記載されていない。
これに対してポルトガル人が献上した品物の中には多くのガラス製品をみることができる。例えば次のような資料がある。
一六〇二年(慶長七年七月)イスパニヤ国王。本船に托して鏡その他イスパニヤ製の粗品数種を殿下に送る(異国日記抄)
一六〇八年(慶長十三年七月十八日)バテレン献上品の中に  一、ビイドロ五つ内二つ盃。(通航 一覧巻百七十九)
一六〇八年(慶長十三年十一月十六日)南蛮人献上品の中に鏡一面があり、次の記事がある。
家康公駿河に御座のとき、南蛮より日を見る眼鏡と月を見る眼鏡を上る。日をみれば火炎のごとくめがねにうつり熱し、又月をみれば、大波濤めがねのさきへ着て、冷気浸身となり。嘉良喜随筆 ○按ずるに此の事年月を記さざれとも、姑く因に存す。(通航一覧巻百九十一)
一六一三年(慶長十八年)インカラテイラ国王の使者、英国インド商会派遣キャプテン・ジョン・セーリスの献上品目録の中には、次の記事がある。
一、蠱眼鏡一個、一、銀台鍍金の筒人望遠鏡。
一六一四年(慶長十九年十一月二日)堺発メルヒョール・ファン・サントフールトより平戸のジャックスペックスに送った書簡の中に当時堺において売買された品目があげられているが、 その中にはガラス器ならびに眼鏡、べっ甲ともに記載されていない。これらは珍貴なものとして献上品に用いられていたからである。
これらのことより考えてべっ甲の眼鏡を家康に献上したのはポルトガル船の船長か、パアドレ (神父)ではなかったかと考える。
ポルトガル人は一五五五年頃マカオを東洋貿易の根拠地として整備し、中国貿易や我が国との交易中継地となし、且つマカオに一五六五年には司教館をつくり、貿易港と共にキリスト教の東洋における伝導の中心地として開拓している。一五八四年のメシヤ神父の報告書によると現在マヵオに遺跡として残っている聖パウロ教会に付属して建てられていた学校には二百人の中国人の子弟達が勉強していたと記してある。このようであったので、マカオの町は周囲の中国文化を取り入れつつヨーロッパ文化と東洋文化の接点として展開し、美術工芸の上にも特色ある多くの作品が造られている。その工芸品の一つとして東洋におけるタイマイ細工の技法を取り入れたヨーロッパ風の工芸品がつくられていたと考えられる。
その例として私は現在サントリー美術館が所威しているタイマイでつくられたarconや、セビリアの教会に現存している大きな十字架をみることができる。その十字架の説明には「十七世紀南米でつくられた」と記してある。このタイマイの材料はカリブ海産のタイマイが使用されたのである。
このタイマイ工芸の技術は中国よりポルトガル、スペインへと伝えられている。スペインに伝えられたタイマイの技術はスペインの婦人連がベールのために使用する大きなべっ甲の櫛Peintaをつくっている。二十六聖人記念館の資料によるとセビリヤの修道院の一つにもサントリー美術館所蔵の 「タイマイのarconと同種のものが所蔵されている。
中国のタイマイ細工の技術者が当時スペイン、ポルトガルまで渡り、材料をカリブ海のタイマイをつかい、ヨーロッパの人達が必要とした工芸品を製作し、その技術をヨーロッパの人達に伝えたと考える。私は先年ポルトガルの学部コインブラを訪ね同地の大学を訪れたとき、同大学の図書館の内部に唐草模様を図案化した東洋趣味の金蒔絵が全体に施されているのをみた。そしてこの図書館は十七世紀につくられたものであるということをきいたとき、この施工者は多分タイマイの技術者がヨーロッパに渡った時期にポルトガルに渡ってきたマカオ周辺の中国の人達の手によったものであろうと考えた。
ポルトガル人はベッ甲のことをTartarugoとよび、スペインの人はCareyとよんでいる。Tartarugoは亀の一種であるという。中国のタイマイと語源を一にする南方の言葉を語源としているのではなかろうか。
以上のことより考えて、久熊山東照宮に収蔵されている家康公の遺品と伝える鼻眼鏡の「べっ甲の枠」は多分マカオを中心にしておこなわれていた中国人の「べっ甲細工人」の手によって十六世紀末つくられたものと考える。
「鼻めがね」は十七世紀になると多く流行している。その例として「長崎オランダ商館の日記」をみると多くの記載をみることができる。
一六四三年八月十三日入港のオランダ船のうちシャムを出航してきた船の積荷の中に、「進物用鼻眼鏡一六〇個」、「遠眼鏡、虫眼鏡」など……
同年大目付井上筑後守よりの注文書の中にも、「水晶の鼻眼鏡 二つ」
一六四四年 支那シャンク船五十四艘入港それらの船の積荷の中に次の記載がある。
鼻眼鏡一六二〇個 百個に付三、○グルテンなどがある。
また前述の末次平蔵御闕払帳にも次の記載がある。
一番、
一、鼻目かね 三拾八、一、遠めがね
  壷
 二番
一、鼻目かね  七拾箱入
これらの「鼻目かね」は当時まだ我が国でつくられることばなく、全て唐蘭船によって輸入されていたものである。然し、これら「鼻目かね」のすべてに「べっ甲の枠」がついていたとは考えられない。それは後述する「玳瑁図説」に記載されていないからであるが、然しこのことはタイマイは当時高価であり眼鏡の枠にまで使用することはなかったからではなかろうかとも推論される。

先頭のページ 前のページ 次のページ >|