平安時代より室町時代におけるタイマイ資料


この時期のタイマイ資料については殆んど資料をみることができなかった。タイマイの原材料の輸入があまりなかったことと、この時代の工芸品にあまりタイマイを必要としなかったのではなかろうか。その故にタイマイ細工の職人もいなくなりタイマイを作ることが平安末にはなくなったのかもしれない。
これは遣唐使船の廃止によって唐文化との交流が跡絶えたことにも一因があるのかもしれない。遣唐使船の廃止は第十七次便船をもって終り、九〇七年には唐が滅び、宋の文化が開かれるようになったのはそれより十年後のことであり、その間に、あれはど多くの工芸品に活用されていたタイマイの工芸品は後退したのではなかろうか。
但し玳瑁は薬物として使用されていたので平安・室町時代においても輸入されていたのではなかろうか。
本草綱目 介部第四五巻に
甲 〔気味〕甘寒無毒
〔宋?日〕入薬用生者 性味全也 既經湯火  即不堪用  輿用輿生熟遲  義同
○〔主治〕 解嶺南百薬毒〔藏器〕?結を破り. 癰毒を消し驚癇を止む。〔日華〕 心風を療し煩熟を解し、血行を行り、大小腸を利す。功、肉と同じ。(士良)磨汁にして服すれば蠱毒を解し、生にて之れを佩ぶれば蠱を辟く。(蘇頌)痘毒を解し、心神の危篤、客件、傷寒の熟結、狂言を鎮む (時珍)
○〔發明〕〔時珍日く〕玳瑁、毒を解し、熟を消すの功、犀角に同じ。古方には用ひず。宋時に至り、至寳丹に始めて之れを用ひるなり。又鼈甲に見ゆ。
○〔附方〕 (舊一新三)、蠱毒を解し、生玳瑁、磨りて汁濃とし、水に一盞を服すれば、即ち消す。
△(楊氏産乳)預、痘毒を解し、行時に遇ふに此れを服すれば、未だ發せぎるものは内消し、己に發する人、稀少なり。生玳瑁 生犀角を用ひ、各々の磨汁し、一合和王温服すること半合、日に三服最も良し。△(霊苑方)痘瘡黒陥乃ち心熱血凝るなり。生玳瑁、生犀角を用ふ。同じく磨汁し一合。猪心血少しばかり、紫草湯五匙を入れ、和奄オ温服す。△〔聞人規痘疹論〕風を迎え目涙す、乃ち心腎の虚熟なり。生玳瑁、羚羊角各々一兩、石燕子一雙を末と爲し.毎服一錢薄荷湯下す、日に一服。△鴻飛集
○肉 〔気味〕甘し、平にして毒無し。〔主治〕諸風毒 邪熱を遂ひ、胸隔の風熟を去り、気血を行り、心神を鎮め、大、小腸を利し、婦人の經脉を通ず。(士良)
○血 〔主治〕諸薬毒を解す。血を刺して之れを飲む。(開賓)
和漢三才図会 巻第四六 介甲部に〔玳瑁〕の項があり、その内容は「本草綱目」をほぼ写したものである。然し後段に次のように記してある。
〔玳瑁〕 代味〔玳瑁〕
△俗以亀甲名鼈甲者甚誤
按ずるにタイマイの甲、文厘、香盒を飾り、くし、笄みみかき等を為る。黒紫色にして日に映じて之れを見れば、白赤黄の樗文あり、艶美愛すべし。然れども脆くして折損し易く、継補し難し。近頃、工人櫛歯を折るる者を継ぐに聊かも其痕を見ず。但だあぶり温め之れを接ぐのみ(原漢文)
但し和漢三才図絵は江戸時代中期正徳三年(一七二二)中島中良がつくったものであり、同書後段の文は江戸時代のベッ甲細工に対する説である。
平安時代の玳増資料としては古事類苑服装の部、石帯のところに次のように記してある。
日本書紀。八、恒武 延暦十八年(七九九)正月庚午 勅 玳瑁帯者 先聰三位己下著用 自今以後五位得同著
〔日本紀略 嵯峨〕 大同四年(八〇九)五月 発酉 聰五位己上通用白木笏 其白玉 玳瑁等 腰帯者 亦依延暦十五年正月 十八年正月丙度格 自餘禁制一如常例
〔延喜式四十一-弊正〕 凡○中略 玳瑁馬脳 斑犀 象牙 沙魚皮紫檀 五位己上通用
延喜式にタイマイの石帯使用のことがでているということは、延喜式が施行されたのは九六七年である。十世紀までは宮中の正式行事にはタイマイが使用されているので、その材料となるタイマイ甲は我が国に持ち渡られていたと考える。
延喜式の中には他に亀甲を紀井国、阿波国、土佐国より取りよせたことが記してあるが、これは、本草和名に「亀甲 和名宇美加女」とありタイマイのことではないと考える。
又、延喜式三七典薬の諸国進年料雑薬のところに次のように記してある。
山城国より鼈甲一枚。摂津国より鼈甲四枚とあるが、これもウミガメと考えてよいと思う。もしこの鼈甲をタイマイとするならば同書には前段に述べているように「玳瑁帯」と記してあるので、ここも玳瑁とすべきであるし、且つタイマイは我が国には生息していないので、この場合の鼈甲はウミガメの甲、またはスッポンと考えられる。
室町時代の末、謡曲「関寺小町」に「ひとよ、とまりし宿までもたいまいをかざり」とある、このときのタイマイはタイマイで作った飾物(置物) の意であろう。

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