玳瑁の歴史  
     
     
 タイマイの細工物は主として髪飾の櫛・笄に使用されたものである。タイマイで櫛を中国で最初に造り用いたものは普の崔豹の選といわれる「古今注」に笄(締枝)に秦の敬王がタイマイを使用したと伝えている。我が国にもタイマイの髪飾は藤原の宮の頃より伝えられていたのかもしれないが正倉院にも現存していないようである。
前記「玳瑁図説」 には次のように記している。
○推古天皇十五才、聖徳皇太子摂政時、小野妹子臣ヲ隋ノ煬帝二遣ス。玳瑁ヲ持チ渡ル。七宝ノ内ノ一ツ也、玳瑁団扇、京都太秦広隆寺宝物。羽八玳瑁、柄ハ通天犀之ヲ造ル。皇太子大和国 橘寺二於テ勝鬘経御講讃ノ時御所持ス。
○元正天皇霊亀二丙辰年、吉備大臣入唐ノ時簪を用ル、唐ノ玄宗開元四年也。 (原漢文)
タイマイの髪飾は中国より舶載され、我が国でも使用されたのであるが、一般にそれが使用さ
れるようになるのは近世享保以降十八世紀になってからである。江戸の初期にはまだ遊女がタイマイの髪飾りをもちいる事もなかった。
桃山時代より江戸時代初期にかけて庶民の風俗画が著しく発展し、その代表的なものとして松浦屏風、彦根屏風があげられている。(松浦屏風・矢代幸雄著、一九五九刊)その中でも松浦屏風の製作は慶長年間の初期のものとされ、彦根屏風を寛永年間の製作とされている。
私はいまこの両図の女性群の髪飾の中にタイマイが使用されていないことに注意したい。寛文期に描かれた浮世絵をみても、延宝版長崎土産に描かれている長崎丸山遊女もタイマイの髪飾りは使用していない。
このことば前述したように当時タイマイが使用されなかったので 「タイマイが下値」 になったことをとってもわかるし、寛文八年以降ぜいたく品としてべっ甲の持渡りを禁止しているのでタイマイを髪飾に使用していないのは当然のことといえる。延宝版長崎土産に唐人より遊女に贈る品をあげているが、そこにもべっ甲はなく次のように記している。
殊、若き唐人などは長崎の遊女を恋する商にことよせ渡海するも有よし。……おのおの小宿小 宿によびて月に雪に酒のみ、うたひ舞がなでつつなぐさむれば、曲輪の外に女の出ずハ 一人も売へき様なし、衣装のうつくしきも 金入緞子、惣かの子もあまた着たる也。異国に持帰る銀子を是がために長崎につかひ捨てる事、一ケ年に 千貫目はど伐よし。 これを前述の汪鵬の袖海編に善かれている丸山遊女の衣裳と比較してみるとべっ甲の変遷がよぐわかる。
岩生成一先生の 「朱印船貿易史の研究」ならびに 「南洋日本町の研究」 の中にある交易品目の中にも玳瑁はあげられていない。それは江戸初期すなわち一六三六年朱印船時代が終る頃まで玳瑁が持ち渡られることはあっても、それは取引にあたるはど我が国では必要としなかったことを示している。
嬉遊笑覧巻一の下、容儀に玳瑁の櫛のことを論じているが、その中に次の文章がある。
小判二両のさし櫛いまの値段の米にして米俵三石あたまに戴く云々 (世の人心草子)すき通りの玳瑁のさし櫛を銀三枚であつらへ、銀の笄に金紋を居させ、珊瑚珠の前髪押へ針かね人のはねもとゆいをかけて (一代男草子)
世の人心) にべつかうの惣すかしのさし櫛と見えたり(天和貞享のころなり)透しの櫛は其の後元文頃より近く天明迄も行はれたり、(中略)彫工東雨安親か女子に彫て与えたる透しの櫛あり、真鍮にて形角なり、みねの所狭く歯長し、おもてに水仙の折花さすかしに造りたり。安親は寛文中の生まれにて延享元年身まれり、此櫛は宝永正徳頃にも造れるか、其の後、はやれるは歯の処玳瑁、水牛にてたけ短く、面を広くして、銀の覆輪種々の模様をすかしに造りたる(我衣)
(寛文年間、べっ甲が下値になり輸入禁止になるまで、まだ長崎にはべっ甲の職人はいなかったようである。するとタイマイ細工の髪飾は中国でつくられたものを唐船又は蘭船が持ち渡ってきていたものを使用していたのであろう。然し修理する場合のことを考えると中国の工人が幾人かば長崎の街にはいたのかもしれない。
因みに我が国でガラスの製作が長崎ではじめられるようになったのは寛文年間(一六五〇)噴からであろうとし、そのガラスの技法も、おそらく唐伝であったと私は推考している。(昭和四三・一発刊長崎市立博物館報第八号掲載「ガラス考・その二」参照)
何故なら、寛文年間にはポルトガル人は既に鎖国令により長崎を退去し、オランダ人は出島にあって自由に街中に外出できなかったことより考えて両者以外の者となると、当時はまだ自由に町中に住することのできた唐船による来航者か、唐寺に住することの許されていた唐憎のみであったからである。
当時のべっ甲の櫛については 「我衣」 に次のようにいっている。
明暦までは大名の奥方ならではべっ甲を用いず……元禄の頃にはべっ甲も上品を選び、価の高下にかかわるといえども金二両を極上とするべっ甲蒔絵も追々用いられ、元禄になり益々流行し、上品を選びて使用するようになりたり
これらの資料によりべっ甲が我が国で一般的に流行するようになったのは十八世紀の初め元禄以降のことであると考える。それにしてもべっ甲の櫛一枚二両といえば現在の十万円前後の櫛ということになる。

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