上代の玳瑁


正倉院の?瑁 製品が所蔵されているということについては一般にはあまり知られていない。しかもそれが近世にみられるような髪用具としてのタイマイではなく、各種の工芸品として製作されている。
従来中国においてタイマイが知られるようになったのは漠代のことであるとして、一般に引用する文献としては「史記」の貨殖法の文章で江南と番禺にはタイマイの産地としての名が記されている。
また後漢書によると桓帝の延熹四年(AD一六一)大奏王安敦が象牙・犀角・?瑁を献じたことが記してある。
前漢の武帝の元封三年(一〇八)、朝鮮に楽浪郡が設置され、ここに中国の文化が朝鮮半島に伝えられることになる。その折タイマイ製品も朝鮮半島に伝えられるがその資料は岡崎敬氏の論考によってまとめられている。その発掘調査によるとタイマイ製品が楽浪にあらわれてくるのは、楽浪郡官史の墳墓王肝墓の中よりタイマイ製の笄・釵・指輪をはめた主人と婦人があり、側槨からはタイマイ貼小匣が見出されている。
この、匣にタイマイを貼るという技法に注目したい。このことについて原田淑人博士の説明によると、
蓋に於ては薄き?瑁 板を突合のままとし外部より継目に黒漆を塗り堅め……身は極めて薄き桜様の樹皮を以て作り……内面には朱漆を?り、外面に二枚からなる?瑁 の薄板を折り回して貼っている。而も各?瑁板には内部の面に黒漆にて図紋を書き外面よりこれを透視する仕組となっている。
この後段に記してある 「外面より透視する」技法が唐代には盛んとなり、今回の調査の折にも各種のものについて見ることができた。しかし、この透視させる材料が全てタイマイではなく馬爪か、サイ角か、または他のものと考えられる場合もあり、本来はタイマイ以外の物で何か透視させる薄い板状のものを作り、下に描いた絵図を透かせてみせるという工芸があり、タイマイが南方から漢時代に導入された時期より、タイマイもその透視の品として用いられるようになったのかもしれない。タイマイを使用することによって、タイマイの持つ黒い斑を巧みに利用することによる効果も考えられていたようである。
タイマイの製品としては、漢時代には櫛・笄・釵・指輪がある。それは本来、指輪を除き木製・竹製のものであったものがタイマイが南方から献上されるようになったとき、タイマイの製品にかえられ、それが貴族社会に流行していったものと考えると透視の用にタイマイを使用するようになったのも、本来は他の物で透視していたのにかわってタイマイを使用するようになったと考える。
漢時代のタイマイの使用にタイマイ製の玉環と佩玉が楽浪郡貞柏里、石厳里の古墳より出土した事が報告されている。このことばタイマイによる装飾品が各方面の器物に使用されつつあったことを示している。
タイマイの加工技術はタイマイの生息する地域で先づ開発されたと考える。それは紀元二一・三 世紀頃と推定されているようであるが、それ以前より貝類を装飾に使用することばしばしば行なわれているので、それ以前よりタイマイを加工する技術はあったと考える。ベトナム方面のみでなく広くインド洋沿岸、アフリカ東岸、紅海西岸でもタイマイを紀元前後から捕獲していたし、タイマイの肉は他の亀類の肉より美味ではないというから、タイマイの捕獲はその甲を取るためだけのものであったのだろう。そして紅海、アフリカ東岸のタイマイはギリシャ・ローマの工芸品の中にも使用されているはずである。
唐時代になったときタイマイの工芸は大いに発達している。唐時代のタイマイの工芸品としては次のものが作られたとしている。タイマイの筵・笛・梁・簪・梳・状などが文書の上にみえているが、この他に工芸品として各種の文房具・装飾品・儀式用具がつくられていた。それに正倉院宝物の中にみられるように如意や拂子のような俤教用具や竹型の杖もつくっている。
平安時代にはタイマイ用具を使用することが次のように規定されていた。
日本後紀 延暦十八年(七九九)正月庚午勅玳瑁帯者、先聴三位己上著用、自今以後五位得同著。
日本紀略 大同四年(八〇五)五月癸酉、聴五位己上通用白木笏、其白玉玳瑁等腰帯者。亦依 延暦十五年正月、十八年正月両度格、自余禁制一如常例。
延書式 巻四十一弾正臺にみる腰帯の素材については、凡(中略)玳瑁、馬脳、斑犀、象牙、沙魚皮、紫檀 五位己上通用″ とみる。
以上の他、僧侶等の俤教用具の中にもタイマイ製品があったであろうが、現在のところ確認されたものをきかない。
平安時代の末になると、次第に中国との交易は減少してくるが、宋時代の泉州の貿易品の中にはタイマイの品目がみられる。この中には我が国に舶載されたものもあろうが、それは薬用としたものばかりでなく、装飾工芸品として用いられたタイマイもあったのではなかろうか。
室町時代となり足利文化をむかえるとタイマイの工芸品は急速に影をひそめているようである。さらに倭寇の時代をむかえると、タイマイの産地に日本船は進出しているのであるが、その地よりタイマイを舶載してきたと云う記録はみない。
ここに奈良時代より伝えられた第一期のタイマイの工芸史は終ったと考える。

先頭のページ 前のページ 次のページ >|