玳瑁考 (其の二) はじめに


私は先述したようにタイマイに関して、長崎のべっ甲(長崎鼈甲商工協同組合・昭和五八・三刊)、正倉院瑁宝物の工芸技法について(宮内庁正倉院事務所・平成三・三刊)、長崎を中心にした玳瑁考・其の一(純心女子短大紀要二十八集・平成三・五刊)の三部を上梓したが、その後、近世のタイマイ(べっ甲)資料については補足すべきものも見いだしたし、オランダ貿易関係資料よりも補足すべきものがあったので純心短大紀要(其の一)に続いて(其の二)を記すことにした。
古代の亀トに使用した亀の甲は「本草和名」に「亀甲和名宇美加女」とある。我が国では近海に多く遊泳するウミガメが使用されていた。
一例として昨年末勝本町教育委員会の須藤資隆氏におきましたところ、現在調査中の同町串山ミルメ浦遺跡(七世紀古墳時代)より十八個体の亀トが出土しているが、これほウミガメであり、同町の海岸には現在でもときとして海亀が流れつくことがあるとのことであった。「延喜式」に亀トのことを記して「対馬より十人、壱岐より十人、伊豆より五人の卜術優長者をト部の車に任ず」とあり、亀トは鹿トより転じたもので、その時期は六世紀末より七世紀とされている。(平野博之氏「対馬・壱岐卜部について」古代文化十七巻三号所収)
奈良県桜井市上之宮遺跡で玳瑁が発掘されたことは先述したが、その後、橿原考古研究所の岡幸二郎先生のご紹介で同遺跡の調査報告書を同町の埋文センタ志水真一先生より送付していただいたので、その写真と壱岐の亀卜とを比べてみると、たしかに上之宮遺跡のものは玳瑁である。私は玳瑁と共に出土している琴柱より考え、且つ正倉院の遺品の例を考えて、上之宮遺跡出土のタイマイは楽器の一部の装飾用のものであったと考えた。そしてそのタイマイは、先述しているように 「タイマイ板の内部の面に図紋を書き、これを透視する仕組」に仕上げられていたものであると考えたい。(拙著・正倉院年報上代の?塙の項参照)

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