丸山遊女とべっ甲
その他長崎に関係したべっ甲関係としては享和元年五月(一八〇一)長崎に来遊した尾張の菱屋半七(吉田重房)が著した 「筑紫紀行」春之六五月七日の条に丸山引田屋の遊女千歌、みしをのことを記しているが、その遊女の衣裳について次のように記している。
千歌、人柄賎しからず、玳瑁の笄乃巾一寸長一尺二・三寸なるが、又玳瑁の 八・九本、玳瑁の櫛をさしたり。衣服は桔梗の紋羅……みしを、玳瑁の櫛、笄、簪五・六木に銀の簪をさし、藤色の紋羅……
芸子二人、一人は国吉、一人は一弥といった。芸子の櫛、笄、簪共にあらあらしかった、それは 「遊女屋より禁制して、すべて芸子其の衣服、頭の飾り華美を許さざる所なりとぞ」 と記して いる。
天保十三年五月長崎奉行柳生伊勢守は倹約令を公布しているがその中に
一 市街料理屋こ於て宴席を張るを得ず。
一、町芸者を廃す。
一、遊女の外女子結髪職を雇フヲ得ず
一、衣服は専ら精服を用ふべし
… 婦女の頭飾に縮緬ノ類ヲ用ふるを得ず
… 「銀製ノ諸具を用るを得ず(以下略す)
この訓令にも丸山遊女の服飾には制限されていないが芸者に対して寛政九年奉行所より「衣類美麗に無之様万事質素節倹を相守候様にとし……今以風俗不相改候哉、分て丸山町寄合町芸子之衣類櫛笄等甚美麗これ有趣相聞不将の事に候、以後不相用者に於之あらば是又召捕吟味を遂げ……」といっている。
前述の芸者の服装が華美にならないようにしたのはこの倹約令によったのである。
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