近世のタイマイ (べっ甲)


近世になるとタイマイとベッ甲を区別しなくなっている。
その第一の理由は鎌倉・室町時代には殆んどタイマイの輸入はなく、玳瑁、鼈甲、亀甲などと区別することがなく、本草和名のように亀の甲はウミガメと全般的に称されていたと考える。
この鼈甲と玳瑁が混同されたのは延喜以後であったと考える。
鼈甲と亀甲と玳瑁の区別は延喜の時代まであったことは前述のとおりである。
鼈甲は亀の甲と異なって薬用となる。タイマイが延喜以後輸入されたとき、それは薬用であったと思う。薬用になる鼈甲とタイマイはそこで同義語として用いられたのではなかろうか。
その鼈甲とタイマイが同義語となった時期は宋との交易が盛んになった時期であると考えている。
それは先年福建省泉州に調査にでかけた折、元、明時代の貿易品についてみたとき、そこには薬用としての玳瑁があったからである。
その時期は十四世紀後半から十五世紀前半と考えられているので鼈甲とタイマイの名称が混同して使用されるようになったのは、その時期と考えられないだろうか。
一六〇三年長崎に在住していたイエズス会の人達の手によって「日ポ辞典」が編纂され出版されているが、その中には既にベッコウとタイマイが混同し次のように説明されている。
※日ポ辞典はVOCABVL ARIO DALINGOA DE JAPAN
Becco Cameno Co 亀類の上部の甲羅。
BEC co亀のから、すなわち甲で作られるある薬。
Cameno Co 亀の背▽Becco
Taimai  シナ人がそれでいろいろな物や細工物を作る亀の甲。
                 (邦訳日葡辞書 岩波書店)
カメノコウは薬となりベッコウと言われている。そしてタイマイは細工物にする亀の甲といっているが、実はタイマイの甲が薬用となることは前述のとおりである。
亀の甲、ベッコウ、タイマイはこのあたりより同一視されたと考える。
明時代のタイマイは主として薬用として南中国福建省泉州を中心とした港より我が国に運ばれていたのではなかろうか。十六世紀末には我が国では、まだタイマイの細工はなされていなかったので日ポ辞書には「シナ人がそれで色々のものを作る」といっている。
当時のポルトガルでは既にタイマイで色々のものを作られていた。
その例として、スペイン・セビリヤの教会に銀の装飾のついた大きなタイマイの十字架があり、その説明には「十七世紀南米で作られたものである」と記してある。
※このタイマイの十字架は二十六聖人記念館の結城了悟館長の御協力によりスペインの本により確認できた。
又、サントリー美術館に十六世紀ヨーロッパで使用された大きな蓋付の橿がある。ポルトガルではarconとよばれる。その一つは「七宝繁文鼈甲象牙張洋橿」と美術館目録には記してあった。
製作された場所はポルトガルかインドであろうと説明されている。私は七宝繁文のあることと前出の日本辞書に「シナ人がそれでいろいろのものや細工物を作る」ということより考えて、マカオあたりで作られたものと考える。
但し実物を拝見していないので判然としないが、タイマイがカリブ海産のものであればポルトガルで作られた可能性もあると考えている。その場合は当然ベッ甲職人として中国の工人がポルトガルに渡っていたと考える。
我が国に現存しているタイマイの遺品としては静岡県久熊山東照宮所蔵の徳川家康公の街遺品の中に「無関節式の鼻眼鏡」があり、その眼鏡の枠がタイマイでできている。
そしてこの眼鏡はオランダ人が献上したと伝えられている。家康の歿年は元和二年二月(一六一六)であり、このタイマイの眼鏡は十六〜十七世紀のものでありオランダ人の東洋貿易の基地の一つであったジャワを中心とした文化圏内の中国の人達の手によって作られたものと考える。
一云五五年頃よりポルトガルはマカオを中心として中国、日本にむけて貿誉開始し、一五六五年にはマカオにもキリスト教伝導の中心地を設けている。
このマカオを中心とした文化を我が国では南蛮文化とよんでいる。この南蛮文化の中には東洋と西洋の文化が混然となった異国趣味の文化が多くつくられている。
その中において、前記のarcomや眼鏡、十字架などがつくられていたはずである。このように考えてくると未調査ではあるがイクリヤ、ローマ、ポルトガル、スペイン、オランダの各地にタイマイで細工された宗教用具、小箱の類がまだ残されている可能性も多い。
スペインの婦人がベールのために使用しているPeintaもタイマイ製であり、又この時代に使用された婦人の髪用具、装飾品の中にもタイマイ製品があると考えている。
このことについてはタイマイの材料と共に東洋のタイマイの職人をヨーロッパに同伴し色々のものを作らせたであろうと考えている。
このように考えてくると十六世紀末、すなわち近世のはじめにタイマイの製品を我が国に最初に持ちこんできたのはポルトガル人であったと考える。
そして、そのポルトガル人が我が国に持ちこんだタイマイの製品はマカオを中心にした地域に住んでいたシナ人とよばれていた人達の手によって作られていたものと考える。
長崎の港に唐船が来航するようになったのは一六〇〇年以降のことである。その故に、少なくとも長崎にタイマイを積み渡ってきた最初の人はポルトガル人であったはずである。その故に「日ポ辞書」 にべッコウ、タイマイの言葉を収集できたと考える。

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