舶来の記


○支那.和蘭陀、其の外諸州の船、日本に着すること。其の右は伊勢國太湊。天れより泉州堺、亦筑前國博多に移す。肥前國平戸、渡海し寛永十八年(辛巳〕の年、今の長崎となる。(江漢駿著『西遊旅譚』三の拾貮丁目)
○阿蘭陀は四季寒國なり。七ケ国にて日本の九州の大なる國と云ふ。国主四人有りて、此の仲間に商船を諸方の国々へ遣はす。国主をコンパ ンヤと号す。諸方に商船遣はすに、本国は遠方の故、ジャガタラ国に代官を置きて、日本諸国の方へ遣はし、商船の下知を為さしむ。此の代官をゼネラルと云ふ。此の者諸方の勘定を聞き置きて、十五年に一度宛本国コンパンヤに惣勘定を致す。詞は唇と舌とにて言ふなり。横文字廿四字あり、一字を二字に分つ時は、四十八字となる。此の外に文字なし。寓細工巧にて工夫厚く、世界の大海に船を乘り廻すこと上手なり。天門・地理・井せて運気の學を修行す。醫道も一流之れ有り。船毎歳長崎へ入津すジャガタラを五月中節以後出船して、七月初節長崎に入津す。八九月の問、荷物商費有り。九月廿日定めて歸帆す。此の時去年來朝のカピタン、當歳來朝のカピタンに代りて歸國す。當年來朝のカピタン長崎に逗留して、來春江戸石町長崎屋へ著し、将軍家へ拜禮を勤む。毎年互ひに此くの如し。長崎の住所の別地を築き一館を構 へ、常は出入を禁ず。八九月商賣の時は商人出入免許するなり。船の長さ廿五六間、亦稀に三十間の船來ることあり。小なるものは二十問ばかり、探さ六七間、横六七間、石火矢廿四五挺、各々長さ八九尺(『通商考』に之れ有り)
○慶長十三年奉行長谷川左兵衛の時、阿蘭陀人、肥前平戸より参府始る。
○寛永十五年奉行(榊原飛弾守・馬場三郎左衛門)の時、南蛮船渡海停止。○寛永十八年奉行(馬場三郎左衛門・柘植平左衛門)の時、今年まで平戸へ入津、阿蘭陀船以來長崎へ入津に極る。此の時九艘來る。
○寛文元年奉行(妻木彦右衛門・黒川與兵衛)の時拜禮、阿蘭陀人正月十五日出立に極る。○同五年奉行(嶋田久太郎・稲生七郎右衛門)の時に蘭船十二艘來る、前後に之れ無き船数なり。多く三四艘より八九艘なること多し。○正徳五年奉行(久松備後守・大岡備前守) の時以來、蘭船貮艘に極る。○明和年中蘭船持渡る諸品の内、玳瑁甲、一萬三千斤舶來せり。亦一寓壹貮千斤、平年七八千斤より少きこと之れ無し。○安永歳中末の頃より玳瑁甲蘭船より持渡り之れ無し、其の故を知らず。○寛政二年奉行(永井筑前守・水野若狭守)阿蘭陀カピタン五ケ年目参府に相成る。
○支那船長さ十四五間位、浙江省の左甫津を夏至の節に入出帆致し、五六月中に長崎へ入津す。是れを夏警云ふ。亦冬至の節入出帆致し、十二月中に入津す。是れを冬船と云ふ。海上三百四拾里。○寛永十二年奉行(榊原飛弾守・仙石大和守)の時、唐船入津、長崎の湊に極る。他所へ往來は制禁なり。○同十三年奉行(馬場三郎右衛門・榊原飛弾守)の時、日本より異國へ渡海停止に相成る。○承應元年奉行(甲斐の庄喜右衛門・黒川與兵衛)の時、長崎にて唐船一艘造る、日新?足なり。○貞享四年奉行(川口源左衛門・宮城監物・山岡十兵衛)の時唐船百拾五艘來る。○元禄元年奉行右同断の時、百拾七艘來る。此の頃前後唐船六七八十艘宛來る。○正徳四年奉行(駒木根肥後守・久松備後守)の時、帰帆の唐船に信牌壹枚宛御渡し、此の後無牌の船は積み戻し。○元文五年奉行(窪田肥前守・萩原伯耆守)の時、唐船は生玳瑁豊疋持渡れ御用に相成る。○寛延二年奉行(安部主斗守・松浦河内守)の時、一ケ年に唐船拾五艘入津に極る。○安永年の末頃より阿蘭陀玳瑁甲持ち渡らず。唐船より?瑁を多く持ち渡る。是れまでも少し宛は唐船より持ち渡る、下品の物多し。○天明二年の頃より玳瑁爪、當地にて追々櫛・笄に作り始む。其の後年は、玳瑁甲爪取り交へ舶來せり。○寛政三年奉行(永井筑前守・水野若狭守)の時巳來は唐船一ケ年に拾艘に極る。

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